NO.2758 廃止から38年、豊後森~肥後小国間を結んでいた鉄道路線、宮原線廃線跡探訪(後編) | コウさんのコウ通大百科 PART3

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(平成24年1月〜平成30年3月の記事はPART2の内容です)

 

 前回NO.2757より、廃止から38年になります旧国鉄宮原(みやのはる)の廃線跡探訪の話題をご紹介しておりますが、前編では久大線との分岐駅であります恵良駅から旧麻生釣(あそづる)駅までの模様をご紹介しておりました。

 

 この旧宮原線は豊後森~旧肥後小国間30.7キロ(本来の旧宮原線は恵良~旧肥後小国間26.6キロ)を結ぶ路線でありまして、昭和12年6月に恵良~旧宝泉寺間が開業、戦時中はレールが金属供出していた事で休止されていたものの昭和23年には復活、昭和29年には大分・熊本県境を越えまして旧肥後小国駅まで延伸されておりました。

 

 しかし、元々人口がそう多くはない山中を県境を走る路線であった事や、「盲腸線」であった事もありまして、利用は伸び悩みまして、昭和59年11月に廃止されております。

 

 その廃止から38年経過しました現在は、大分県九重町の区間では国道387号線バイパスと化しておりまして、上の画像の旧宝泉寺駅、以下画像の旧町田駅は道路と化しておりまして、旧町田駅では駅名標・ホームの一部が残されているのみであります。

 

 さらに、旧麻生釣駅では駅自体の跡が見えなくなっておりまして、それほど自然化している所が見えております。幸い、それらしき跡は調べる事で明らかにはなりましたが、それでも詳しく残っていないのは正直残念ではないかとも思う所ではあります。

 

 (黒い線の部分がホーム跡と思わしき部分、茶色が亘りの部分、赤丸が駅舎があったと思われる部分)

 

 そんな宮原線も、末期には以下の本数で運行されておりまして、使用車両もその下の画像のキハ40形気動車やキハ53形気動車が使用されておりまして、平日・日曜・祝日は昼間の運行はないと言った姿も見られておりました。それほど利用者が少なかった事も伺わせる部分ではなかったかとも思います。

 

 (キハ40 2037)~大分運転所(当時)所属時に運行されていました

 

 また、かつては九州鉄道記念館に保存されておりますキハ07 41も、他の2両とともにこの路線で活躍しておりました。この車にとりましても末期はその旧宮原線で活躍していた気動車の1つであった訳ですが、その下の画像にありますサボもその面影の1つでもありましょうか。

 

 

 さて、ここまで前編の模様を改めてご紹介しましたが、今回後編では始終着駅であります旧肥後小国駅までの廃線跡探訪の模様を皆様にご紹介してまいります。

 

 

 旧麻生釣駅を発ちまして、自走で走りまして約5分、この間に大分県九重町から熊本県小国町に入りまして最初に来ましたのが堀田橋梁であります。この間には旧麻生釣駅の標高670メートルから麻生釣トンネルなど複数のトンネル、そして複数のカーブを使って下りて来ておりましたが、そんな下りてきている最中にこう言ったコンクリート造りの橋梁の遺構を見る事ができております。

 

 (別の位置)

 

 

 堀田橋梁を過ぎまして、一山越えますと汐井川橋梁があります。この旧宮原線では先述の堀田橋梁のように、この後の橋梁でも画像のようなコンクリート造りの橋梁が見られておりまして、いずれも高い所にありますので眺めも良かったのではないかとも思います。しかも詳しく両側も見られますので、これに列車が走っていたならば、正直撮影スポットではなかったかなとも思う所でしょうか。

 

 (豊後森方)

 

 (旧肥後小国方)

 

 その汐井川橋梁を過ぎますと堂山橋梁になります。現在は橋梁の下を電線が通っているのがわかりますが、それほど高い位置を旧宮原線は通っておりました。尚、橋の上には柵がありますが、遊歩道としても活用されている事がお分かりいただけます。

 

 (反対側)

 

 また、汐井川橋梁と堂山橋梁とはそう離れておりません。ですから両方の橋梁を走る列車の撮影も良かったのではないかとも思う所ではありましたでしょうか。

 

 

 それからも下りながら旧宮原線は進んでおりましたし、我々も国道387号線を進んでおりました。そんな画像の道路は宮原線跡の部分になりまして、旧北里駅から約700メートル手前の所から合流していたものであります。

 

 

 そして、旧北里駅へやってまいりました。上の時刻表からもわかりますように、旧麻生釣駅からでしたら7.7キロの所になりまして、駅間の所要時間も約20分ほどになる所でありましたが、速度もそんなに出ていなかったようですので、それほどこの区間の勾配があった事もわかるのではないかと思います。

 

 この旧北里駅は1面1線のホーム配置であったそうでありまして、画像の造りがそれを物語っております。そんなこの駅は、画像のような待合用の屋根はなく、あくまでも駅跡のモニュメントの一つでもあります。

 

 また、ホームも実は現在の国道387号と沿った所にかつては存在しておりまして、その証としまして以下画像の奥・その下の画像の柵がある所がそれを物語っております。実はこの柵の中には地下道が設けられておりまして、地下道を降りた所に駅の出入口がありまして駅の下にあります北里地区の集落へとつながっておりましたし、駅として存在していた頃にはそれを覆う建物・待合室もありまして、それからホームへとつながってもいました。

 

 (手前側からから旧ホーム~待合室~階段とつながっていました)

 

 所で、ホームのモニュメントの所には地元の方がわらでつくられたものもありましたが、これらは調べますと「招き猫」「くまモン」との事であります。しかし、つくられて長い月日が経っていたようでありまして、そう言った事から「招き猫」も形から猫である事はわかりますが、顔は見えず「コロナ禍」である事からマスクが見えるのみ、「くまモン」に至っては面影も見られなくなってしまっておりました・・・。

 

 (招き猫)

 

 (「くまモン!?」)

 

 そんな旧北里駅の所には直売所・そば店がありまして、この日(訪問日・10月10日)は各地から来られていた事で賑わっておりました。そんな中の「森のキオスク」とは、かつて駅があった事も連想させる部分でもありましょうか。尚、旧宮原線はそば店横の所を通りまして、北里橋梁へと向かっておりました。

 

 (画像左の屋根のある所の右側が旧宮原線になります)

 

 

 旧宮原線は、上の画像の所から進みますとコンクリート造りの北里橋梁になりまして、再び山の中へと進んで行きます。ここから旧肥後小国駅間は遊歩道として整備されておりますが、そう言った事もありまして、この北里橋梁の部分では橋の上には柵が設けられている事もお分かりいただけます。

 

 (旧肥後小国方)~右側が北里柴三郎記念館

 

 

 九重町からここまでほとんどの区間を走りました国道387号線を別れまして、県道318号線に入りまして廃線跡区間を追って行きます。北里橋梁から進みますと画像の建物がありますが、ここが北里柴三郎の生家となっておりまして、ここに北里柴三郎記念館も設けられております。

 

 ちなみに北里柴三郎と言いますと、弟子でもあります野口英世から引き継ぎまして次期千円札となる事が決まっております。したがって、最も見る機会が多いお札という事にもなるようですが、私自身弟子から師匠に代替わりするとは正直思わなかっただけに正直驚きではありました・・・。

 

 

 そんな北里柴三郎も育ちました北里地区を過ぎまして、小国方面へと進んで行きます。画像の橋梁も、山の中を突っ切って行く形の中で設けられていた事がわかりますが、こちらに関しましても遊歩道として整備されている事もありまして、ハイキングにはふさわしいような姿にも見えるのがいいのではないかとも思います。

 

 

 画像は、幸野川(こうのがわ)橋梁であります。この橋はコンクリート造りの6連アーチ橋ででありまして、昭和14年頃に完成したものだそうですが、この橋梁の特徴としまして、完成当時は戦争準備のために極端な鉄不足であった事もありまして、コンクリートの中に鉄筋を入れる代わりに竹を入れているそうであります。このような「竹筋橋」は全国的にも珍しく、九州では松浦鉄道西九州線の福井川橋梁もその1つではありますが、福井川橋梁が稼働している中で、こちらは稼働していないのは残念でしょうか。

 

 (別の位置より)~電線も橋の下を通っているのがわかります

 

 また、ご紹介しておりますように旧北里駅より旧肥後小国駅までの間も遊歩道として整備されておりますが、こちらには幸野川橋梁周回コースとしての案内板も設けられております。

 

 

 このあと、県道318号線から国道212号線、そして県道178号線を通りまして旧肥後小国駅近くへとやってまいりました。それから旧北里駅側へ少し歩きまして、以下画像奥の宮原(みやのはる)トンネルを収めておりまして、さらに進んだ所でその下の画像を収めておりました。

 

 (奥に宮原トンネル)

 

 (別の位置)

 

 その反対側が画像になります。奥に見えますのが旧肥後小国駅と言う事になりますが、画像の位置から坂を下りてまいりまして、肥後小国駅に着く形となっておりました。

 

 そのため、逆に肥後小国駅から豊後森駅へ行く列車の場合は、かつて蒸気機関車時代は駅を出たと思ったら登りきれず、また下がって駅に戻ると言った事があったそうです。これはちょうどこの位置で撮影していた際に地元の方から聞いた話ではありましたが、駅を出て急に勾配が上がる事でこう言った事にもなるこぼれ話もあった訳ですから、まさに時代を伺わせる所ではあります・・・。

 

 こちらが遊歩道の小国側出入口にあります案内板であります。ここでは旧北里駅までの案内が記されておりますが、約4キロ近くはありますし、高低差もありますので、先述のようにハイキングにはふさわしいのではないかとも思う所でしょうか。

 

 

 こうして、旧肥後小国駅跡にやってまいりました。ここには、画像のように駅名標や線路のモニュメントも見られておりまして、ここに駅があった事を伝えております。

 

 (駅名標)

 

 (線路のモニュメント)

 

 また、腕木式信号機や転轍機などもそのまま展示されておりまして、実際に38年前まで使用されていた証が見られておりました。特に腕木式信号機は今の信号機では見られない代物ではありますし、この駅では実際に使っていた分物語らせる部分である事も伺わせる所ではあります。

 

 (腕木式信号機)

 

 (転轍機他)

 

 そんなこの地は、現在は道の駅小国「ゆうステーション」として整備されておりまして、画像の鏡のような建物が印象的であります。ここでは物産館が備えられておりますし、バス乗場も北側に設けられておりまして、産交バスの小国地区・杖立・阿蘇駅方面の路線バスや、産交バスの他、同じグループ内の九州産交バスそして日田バスも運行します黒川温泉・福岡方面の高速路線バスも停車しております。

 

 

 さて、実は旧肥後小国駅舎は画像右側の交差点部分に設けられておりまして、左側に沿って存在する道路は駅への道路でありました。ここは廃止後に整備されておりまして、「ゆうステーション」に沿って国道387号線と県道178号線とが合流する交差点として変化を遂げております。

 

 また、ホームも以下画像の部分に設けられておりまして、駅自体は1面2線(1線は機回し線)と言う形となっておりましたし、側線も複数見られておりました。実際に画像の緑で盛り上がった部分が旧1番ホーム跡になる部分のようですが、この部分までホームの跡が残されていた事はかつてを偲ぶ部分の一つと言えましょうか。

 

 そして、以下画像左奥の緑の部分機回し線・保線ホーム跡になります。本当に「ゆうステーション」の部分しかかつての駅跡を偲ぶ部分が見られないだけに、私自身も昔の航空写真などを参考にしまして、実際この駅はそう言った形であった事が改めてわかったほどでもありました・・・。

 

 (車内より停車時撮影)

 

 

 所で、実はこの線路は熊本電気鉄道(熊本電鉄)の菊池駅まで延びる計画でもあったそうでして、その証としまして小国高校近くまで橋梁・トンネル跡が見られております。いわゆる「未成線」ではありますが、現在は両側の路線が廃止されている今、延伸させようとしていた事を伺わせる所が見られていたのには驚きでしょうか。

 

 (奥が旧肥後小国駅になります)

 

 (奥に橋梁跡があります)

 

 その橋梁跡が渡られるそうでしたので渡ってみまして、奥のトンネルも見て見ましたが、画像のように草に覆われておりまして、通る事も難しくなっておりました。尚、実際にトンネルをくぐられた方のブログによりますと、その先は工事された跡はなかったそうでありまして、まさに橋とトンネルだけはつくっておこうとしていた事が伺わせておりました。

 

 (奥にトンネルがあります)

 

 ちなみに先述のように通行可能という事ではありますが、画像のように役場によりまして注意書きが書かれております。ご覧の方々も今後行かれます際には注意をしていただきたいと思います。

 

 

 前回と今回の2回にかけまして、豊後森~旧肥後小国間を結びました旧宮原線廃線跡探訪をご紹介してまいりましたが、遺構が残されている事、そして通行ができる事はかつてここに鉄道が存在していた事がわかる証として大変ふさわしい所ではないかと思います。私自身も、今回の訪問前まではGoogleマップやHP・ブログ等を使いまして下調べしまして探訪へと至りましたが、いざ行ってみますと貴重な姿も実際に見られている訳ではありますので、今後自然に帰る部分も見られる部分はありますが、橋梁のように遺してもいい部分はこれからも大事に保存していただければと切に願う所ではあります。