廃止されまして2年が経過しております、福岡県大牟田市にあります三井化学専用線の現状をご紹介しておりますが、前編では旧仮屋川操車場・旧旭町駅・旭町1号踏切跡の現状を皆様にご紹介しておりました。
前回もご紹介しましたように、この三井化学専用線とは、JRとの授受を行っておりました仮屋川操車場から、旭町駅を経まして宮浦駅間約2キロを結ぶ専用線でありまして、元々は三池炭鉱の石炭を三池港へ積み出すために存在しておりました三池鉄道として、旧三池浜駅から旧宮浦駅・旧原万田駅・旧四ツ山駅などを経まして大回りで存在していたものでありましたが、その三池炭鉱の閉山もありまして三池鉄道は平成9年に廃止となっておりましたが、三井化学工場への専用線は引き続き残されておりまして、連日仮屋川操車場~旭町~宮浦間へ貨物列車は運行されておりました。
しかし、令和2年に原材料の濃硝酸の製造元であります三菱ケミカルが、黒崎工場での製造を終了する事に伴いまして、三井化学専用線も廃止されておりまして、現在上の画像にもありますように旧旭町駅や、以下画像にあります吊しタイプの踏切でもありました旭町1号踏切など、施設は撤去が進んでおりまして、かつての面影も見られなくなっております。
(旭町1号踏切跡)~ショベルカーがいる位置に操作場がありました
(旧仮屋川操車場跡)
さて、前編はこれら3箇所をご紹介しましたが、今回の後編では、三井化学専用線・三池鉄道の中心駅でもありました、旧宮浦駅の現状を皆様にご紹介してまいります。
宮浦駅は、先述のように三井化学専用線・三池鉄道の中心駅として存在していた所でありまして、そう言った事から駅構内は広いのが特徴でもあります。また、駅に隣接しまして三井化学工場も設けられておりますので、工場構内へも線路が存在しておりました。
廃止前の令和2年4月撮影画像です。構内には製造から100年を超えます大正4年製の9号機電気機関車、大正6年製の11号機(画像)・12号機電気機関車が使用されておりまして、画像のように入換を行うシーンが見られておりました。尚、工場内は引火性の強い物質を扱う区域がある事もありまして電化されておりませんでしたので、必ず蓄電池が積載されております電源車が連結されておりまして、この電源を使用しまして運行する事ができておりました。
(「銀タンコ」を連結)
(工場内へ電源車の電源を使用して移動)
尚、この三井化学専用線にはこれら電気機関車に加えまして、仮屋川操車場~旭町~宮浦間を運行しておりました、昭和12年製の18・19号機電気機関車も存在しておりまして、かつて三池鉄道時代は電気機関車が客車を牽引して旅客も運んでいた事もあった事から「炭鉱電車」とも呼ばれておりますが、入換用の3両とともに、後述のように現在も健在な姿が見られております。
さて、ここからは訪問時の現状をご紹介してまいります。尚、後述のようにその後動きもありました所も見られておりましたので、それに関しましては本文中にご紹介させていただきます。
旧旭町駅から旧宮浦駅までの間は、途中から上の画像・以下画像のように線路が残されておりまして、健在となっております電気機関車が運行する姿が保寸運転の形で現在も見られておりまして、時々稼働する姿が見られております。しかし、架線柱は残されてはいるものの架線は撤去されておりまして、ここでは入換用の電気機関車が電源車を従えて運行する事しかできなくなっております・・・。
上の画像右側には工場内へ延びておりました線路跡の姿も見られておりますし、奥には橋梁跡も見られております。かつては入換用の電気機関車3両が貨車を従えて工場内へ出入りする姿が見られておりましたので、線路を撤去している所からそう言った姿も見られなくなった事がお分かりいただけるのではないかと思います。
こちらは、上の画像を撮影しました東泉町2号踏切でありますが、そう言った事もありまして踏切は健在となっております。この踏切の特徴と言いますと、釣鐘式の踏切であるのが特徴ではありますが、保寸運転時にその釣鐘式の踏切音が聞こえる事もあるようではあります。
その東泉町2号踏切の反対側が以下の通りであります。画像のように、この日は稼働しておりませんでしたので柵は閉じられておりましたが、その下の画像にもありますように線路が撤去された部分も見られておりまして、専用線としての姿も既に終止符を打たれている事もわかるような姿でもありましょうか。
(上の画像の工場内からの線路が撤去されています)
今回は、機関庫があります宮浦駅の南側まで行ってみました。構内には撤去されました線路が山積みされておりまして、旧仮屋川操車場からこの駅までの線路が集められていたのではないかと思われます。このレールも、恐らくかなり古いレールもあるのではないかと思われますが、連日レールの上を列車が走っていた訳ですので、そうした役割が終わった所はまさに終止符が打たれている事を伺わせる姿ではないかとも思います。
こちらは、後述の宮浦駅駅舎付近で収めておりました構内でありますが、一部線路が残されている部分はあるものの、ほとんどは線路は撤去されている事がわかります。この姿を見ますと、使用されなくなった事を伺わせる所でもありますが、正直寂しくなったなと実感させる部分でもありましょうか。
(別の位置より)
こうして、南側の機関庫へやってまいりました。この機関庫前には三坑町3号踏切も設けれておりまして、こちらの踏切に関しましても、保寸運転が行われている関係で健在の姿が見られております。
この機関庫前には、健在の姿を見せております電気機関車5両中3両の姿がこの日は見られておりました。ここからはこの3両をご紹介します。
以下画像が、19号機電気機関車であります。この19号機電気機関車は、同じく現存します18号機電気機関車とともに昭和17年芝浦製作所(現・東芝)製であります45トン級B-B形吊り掛け式の電気機関車でありまして、以前は三池本線などで活躍しておりましたが、その後三井化学専用線で活躍しておりました。
一方、こちらが12号機電気機関車と左側は11号機電気機関車ではないかと思われます。この2両は、大正6年に三菱造船で製造されました20トン級B形吊り掛け式の電気機関車でありまして、デ形の電源車を必ず連結しまして工場構内へパンタグラフを降ろした状態で運行されておりました。尚、現存します9号電気機関車は大正4年に三菱造船で製造されました20トン級B形吊り掛け式の電気機関車でもあります。
現在、架線が通っておりますのがこの機関庫付近のみでありまして、旧宮浦駅構内へは20トン級電気機関車が頼りとなっておりますが、それぞれ保寸運転等で稼働する姿が見られております。
これら電気機関車も、廃止後にありました「令和2年7月豪雨」におきまして、車両が水没する被害も受けておりましたが、関係者の努力もありまして全車修復に至る事ができておりまして、5両とも廃車される事もなく健在な姿が見られている事は嬉しい限りでもあります。
この南側からも、構内の姿を見てみましたのでご紹介します。以下画像は南側の三池本線であった部分でありまして、かつては三池港まで延びていた所でもありましたが、茶色い部分が保寸運転が行われている時に使う線路でありますので、線路の具合も違っている事がお分かりいただけます。
こちらがその反対側でありますが、保寸運転等には茶色の線路を通って構内へと進んでおりまして、もちろん稼働時には柵を開けまして運行されております。それでも、架線がありませんので、主役は11号機もしくは12号機電気機関車でありまして、100年経過しましても健在な姿が見られる時でもあります。
ちなみに、旧三池本線の部分に関しましては画像のようにPC枕木となっている事がわかります。これは他の旧三池本線駅跡でも見られている姿でありますが、それほど近代的な姿が見られていた事もわかるのではないかと思います。
ここからは南側から戻ってまいります。画像はポイント部分でありますが、この駅構内ではこのような色が入った形のポイント転轍機の姿が見られております。
こちらが、入換の操作が行われておりました宮浦駅駅舎であります。味がある駅舎も廃止後は既に稼働はありませんでしたが、このほど解体が行われておりまして、今後この駅舎も更地に変わる事にもなるようであります。本当に、まさかこの撮影後に解体へと至る事になるとも思わなかっただけに、正直驚いている所でもあります・・・。
一方、シートに覆われている所が車両の解体が行われている所でもあります。現在、先述の5両以外の解体が行われているそうでもありまして、廃止前から稼働していなかった車両を中心に解体へと至っているようでもあります。残念ながら、解体の姿も見られなくなっていた事もわかりますが、それほど残念な姿を見せてはならないと言う思いもあるのではなかったでしょうか・・・。
今回は、後編として旧宮浦駅の現状をご紹介しましたが、専用線が廃止となっている事を思いますとご紹介したような姿が見られている事は致し方ない所でもありましょうか。それでも、廃止前に稼働していた車両に関しましては、大雨で水没していましても復活へと至っておりまして、訪問時もきれいな姿が見られておりましたので、引き続き稼働する姿が見られるようではあります。特に、三池炭鉱が世界遺産となった今としましては、これら電気機関車もかつてを偲ぶ存在である事には間違いないのではないかと思いますので、これからも動態保存としていつまでも残していただきたいものであります。