三宝荒神の事2 | 光明の生活

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実相無漏の大海に、五塵六欲の風は吹かねども、隨縁真如の波の立たぬ日は無し。まあそんな感じです。

【私釈】
三宝荒神は無明を代表として一切の不善業をその本体としてその影響一切が荒神であると思われます。
それは繰り返しになりますが、三宝荒神は無明と不善業だからであります。
 
自業自得の理のうえに、不条理とも思われるような諸々の事態も荒神の働きであります。
それを拝むとは、言い訳も逃げもなく、相手のせいにもせず、受け流すにしても受け入れるにしても、ともかく正面切ってその事態を認めることであります。
客観にしろ主観にしろ、その事態を認めて自分に受け入れることがここでの拝むの義ではないかと思われます。
 
これは「難しい」のです。「怖い」ことです。「危ない」のです。
 
例えば暴力を振るう親や婚約者がいたとして、それは確かに相手が悪くて殴られている人は悪くないのです。だから愚痴の一つも言いたくなります。
 
それを認めない。それを相手の善悪を問わず事実としてこうあると認めて受け入れろと言っているわけです。
それによってそれは経験値化、教訓化されて『薬』となる。
それができないうちはいつまでも荒神の障りが暴れまわり『毒』のままだということだと思われます。

または単純に自業自得の事態が発生する。
でも凡夫はそれを受け入れたくないので大暴れする。まはた落ち込む。鬱になる。
その事態がそのまま「荒神の障り」であると思われます。
 
繰り返しますが、これは「難しい」のです。「怖い」ことです。「危ない」のです。
だから荒神様は怖く、危ない神様で、扱いが難しい、とされるのではないかと思われます。