見仏三昧の事3 | 光明の生活

光明の生活

実相無漏の大海に、五塵六欲の風は吹かねども、隨縁真如の波の立たぬ日は無し。まあそんな感じです。

見仏三昧を発得したとしてそれに意味があるのか。功徳があるのか。
 
無功徳ですね。
 
見えようと見えまいと、私は常に真如海の中にいるのですから、関係ないと言えば関係ないのです。
 
何時も仏さまというのはどの仏様もー如来であればー同体大悲の御心から我々を案じてくださっておられます。
法華でも『毎(つね)に自ら是の念を作さく 何を以てか衆生をして無上道に入り 速かに仏身を成就することを得せ令めんと』と説かれております。
 
そのお気持ちを信じて「お育て頂く」ことができればいい、八正道はじめ三十七菩提分法、上座大乗、顕密の仏道をを学び行じていければいいので、神秘体験があろうとなかろうと関係ないのです。
 
それに四禅比丘と言って、瞑想の技術ばかり上手くなって人柄が追い付かないことがあるとは古来、『大論』等で誡められていることです。自戒でございます。
 
ではなぜ見仏を目的とするのかというと、それは信を起こすためであります。
 
仏様はいつも真正面にましまして、私をお見守り下さって、仏道に入れしめ、お育て下さるということを感じるためであります。
お育て頂く、これが肝心でありまして、見えた見えたは本義では二の次なのです。
 
いくら見えようと感じようと、仏さまは海の如く、我らはペットボトルの如しで、いくら海の水をペットボトルいっぱいに汲んでも、海の水は汲みつくせないのです。
 
それと同じで、いくら感じようと見えようと、それは仏様全体を見聞きしたわけではありません。
 
ただ、何時も仏さまと一緒である、離れないのである、お会い頂いているのであるということを感じて安心決定し、お育て頂くための事なのであります。
 
 
(注)
私に曰く、法界体性として法界身の弥陀に四智あり。これ十二光なり。三十七道品をもってこれに入る。正見をもって初め入り、正定をもって安心す。いわゆる三業不捨離。これ三密。云々。