見仏三昧の事1 | 光明の生活

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実相無漏の大海に、五塵六欲の風は吹かねども、隨縁真如の波の立たぬ日は無し。まあそんな感じです。

【引文】
『観無量寿経』に曰く。
「仏、阿難および韋提希に告げたまはく、
『この事を見をはらば、次にまさに仏を想ふべし。ゆゑはいかん。
諸仏如来はこれ法界身なり。一切衆生の心想のうちに入りたまふ。
このゆゑになんぢら心に仏を想ふとき、この心すなはちこれ仏の三十二相・八十随形好なれば、この心作仏す、この心これ仏なり。
諸仏正遍知海は心想より生ず。このゆゑにまさに一心に繋念して、あきらかにかの仏、多陀阿伽度・阿羅訶・三藐三仏陀を観ずべし。』」
 
『疏』「玄義分」に曰く。
「いまこの『観経』はすなはち観仏三昧をもつて宗となし、また念仏三昧をもつて宗となす。」
 
了恵上人の『漢語灯録』中の法然上人の『三昧発得記』に曰く。
「元久三年の正月朔日に勤修す恆例の七日念佛。
第四日に至りて念佛の間、阿彌陀佛觀音勢至三尊、共に大身を現じたまふ。
五日復た現じたまふ。」
(『浄全』第9巻455ページA段)
 
鎮西上人の『徹選択集』に曰く。
「問曰念佛三昧とは何の義ぞや。
答曰念佛三昧とは是れ不離佛の義なり。
問曰不離佛とは何の義ぞや。
答曰不離佛とは値遇佛の義なり。」
(『浄全』第7巻98ページA段)

記主の『伝通記』に曰く。
「問兩三昧の行、是始終倶に差別なりとせんや、否や。
答先師の云、始別、終同なり。
始別と言うは口稱と觀念と行相異なるが故に。
終同と言うは行成の時心眼即ち開て同く見佛するが故に。
『觀念法門』に云く
「若し定心三昧及び口稱三昧を得る者は心眼即開らけて彼の淨土の一切莊嚴を見こと説くとも窮盡なけん」已上
口稱念佛の機に二種有り。一には定機、二には散機なり。
定機と言うは口稱の力に由りて定心發得して方に佛を見るなり。
散機と言うは散心稱名して臨終の時に至り方に乃ち佛を見て淨土に往生するなり。」云々。

(『浄全』第2巻155ページB段)