神社の鏡の御話(その三) | 光明の生活

光明の生活

実相無漏の大海に、五塵六欲の風は吹かねども、隨縁真如の波の立たぬ日は無し。まあそんな感じです。

今回の神社の鏡のお話ですが、これで最終回です。



鏡を拝むことは、自分自身を拝むこと、つまり、自分の中にある神様を拝むことである、と言うお話をしました。


自分自身の神様を、鏡を拝むことで拝む、と言う事は、逆にいえば、いつも貴方の心には神様がいらっしゃると言う事です。


別に鏡を拝まないと、神様がいない訳ではありません。

このままで、いつも神様と一緒です。


だから、貴方はどんな時でも、絶望や悲しみで解らなくなっても、いつも一緒に悲しみ喜んで下さる方と、一緒に居るのです。



巡礼、特に四国遍路に出ると、たとえ一人で廻っていても、「同行二人」であると言われます。


これは、弘法大師(空海阿闍梨)といつも一緒である、と言う事ですね。


親鸞聖人は、『弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずればひとへに親鸞一人(いちにん)が為なりけり』と言われました。


これは、阿弥陀様の絶え間ない恩寵といつも共にある、と言う事でもあるでしょう。


どんな方でも、たとえ当人の自覚が有っても無くても、各々有縁の神様仏様といつも一緒に居るのではないかと思うのです。



この記事を読んでいただいた貴方に、有り難うございます。


人気ブログランキングへ ブログランキング

もし宜しければ、光明を広げ、より多くの皆さんにご安心を頂くために、上記のバナーのクリックをお願いいたします。