「生きて死ぬ智慧」 | 「生身感覚同期」⇒「写楽」

「生身感覚同期」⇒「写楽」

「光還元⇒自然同期」の「気づきの促し」⇒「ウツシ」「転写」「翻訳」の働き作用 「写楽」とは「転写」を楽しむ事です。

「生きて死ぬ智慧」

生命科学者の柳澤桂子氏の「生きて死ぬ智慧」を紹介します。「自我機能同期」による「生身現象」からの「探求旅」です。

公開用動画で紹介した「靑山俊董老」の世界観と類似のお話しです。

公開用3こんなはずじゃなかった以前「靑山俊董老」の世界観1時間21分14秒

青山氏と異なるのは「生命学者」の眼差しからの「物語」「ストーリー」を伝えてくれていることです。

公開動画⇒「生きて死ぬ智慧」⇒心訳「般若心経」小学館 (2004年10月10日初版)

「いのちで読む般若心経~生命学者・柳沢桂子「般若心経」柳澤桂子2005年10月03日

注⇒公開動画は、いつ削除されるかわかりません。関心のある方はダウンロードしお楽しみ下さい。

参考サイト

「般若心経」の読み方、無と命の関わりが語られる 

https://sendatakayuki.web.fc2.com/etcgenkou/shohyou7.html

 

柳澤氏が、生きることのあまりの辛さに救いを求め、宗教を勉強してたどりついたのは宗教とは異質の「不思議な脳の状態」だったことが語られています。いわゆる仏教の「悟り」という状態です。⇒「言葉」「文字(映像)イメージ」遊びです。
あとがきより柳澤さんの解釈を抜粋します。

 

 「私たちは、自己と他者、自分と他のものという二元的な考え方に深入りしていきます。元来、自分と対象物という見方をするところに執着が生まれ、欲の原因になります…。ところが一元的に見たらどうでしょう。
…私たちは原子からできています。原子は動き回っているために、この物質世界が成り立っているのです。この宇宙を原子レベルでみてみましょう。私のいるところは少し原子の密度が高いかも知れません。あなたのいるところも高いでしょう。戸棚のところも原子が密に存在するでしょう。これが宇宙を一元的に見た時の景色です。一面の原子の飛び交っている空間の中に、ところどころ原子が密に存在するところがあるだけです。
あなたもありません。私もありません。けれどもそれはそこに存在するのです。物も原子の濃淡でしかありませんから、それにとらわれることもありません。一元的な世界こそが真理で、私たちは錯覚を起こしているのです。
このように宇宙の真実に目覚めた人は、物事に執着するということがなくなり、何事淡々と受け容れることができるようになります。
これがお釈迦様の悟られたことであると私は思います。もちろん、お釈迦様が原子を考えておられたとは思いませんが、物事の本質を見抜いておられたと思います。」

 

柳澤氏との対談者・僧侶の松原哲明氏とのやり取りの「チグハグ」わかりましたか?同じ「自我機能同期」でも「言葉」「文字(映像)イメージ」遊びの循環が違っているのです。

病により「痛みを感じた」柳澤氏の「自我観」と「言葉」「文字」の「自我観」との「差」が違和感を現象化させているのです。

 

「般若心経」の解釈仮説は「自我機能同期読み」の解釈ごっこです。誰も「智慧の完成」に至っていない現実現象に意識は向かわないのです。

相変わらずの「言葉・文字追い」探求が続いているのです。「足るを知らず」の「読み方知らず」の伝統文化現象です。

 

「般若心経」の構成・構造は「自我機能同期」の文言の「否定」により構成されています。わかりやすく言い直すならば「言葉」「文字」による「思考・概念」の「否定」です。

繰り返される「名詞」の循環は言葉・文字の否定を伝えているのです。しかし「言葉」「文字(映像)イメージ」遊びの中で育てられた人間はチンプンカンプンになっての混迷・混乱をきたすだけなのです。

 

「思考・概念」は「言葉」「文字(映像)イメージ」遊びによる現象化⇒自我機能」です。つまり「言葉」「文字(映像)イメージ」遊びの「否定」です。

何回もお伝えしています「言葉」「文字(映像)イメージ」遊びは、誕生後の「刷り込み⇒刻印付け」循環現象により生成されているという事です。⇒「自我機能の生成」

「名前・名札・肩書外し」「言葉・文字外し」すると、簡単にわかります。「我が身⇒60兆の細胞同期」の現実現象に意識を向けざるを得なくなるからです。

すると自然に「完全」「完璧」な世界観を感知・検知できるのです。「我が身」の記憶の呼び起こし、湧き出しが自然に現象化して来るのです。

 

柳澤桂子氏の最終場面で「自我を削り取ると見えて来る世界がある事」を述べています。

彼女の体験世界のお話しです。当人の事でしかない事わかりますか?

公開・抜粋「自我を削る」逐語

「悉有仏性・みんな仏性を持っているんです。人間の頭の中に仏性があるんです。

※「頭の中にある」というのは、間違いです。「我が身・全身」が「仏性」なのです。

ただそれに気づかないで、磨いてないからわからないだけで、

それに気づいて、あの自我を削ってさえいけば、誰でも幸せになれるんです。

あのそれは私たちの希望であり、あの幸せになって世界が平和になるには、あの人間がそこまで成熟しなければならないと、人間が成熟するという事が、あの、これからの私たちの大きな課題だと思います。」

 

「仏性がある」「磨いていないからわからない」「自我を削っていけば、誰でも幸せになれるんです」「人間が成熟するという事が、あの、これからの私たちの大きな課題だと思います。」

見る人・聞く人には、全く具体性のない「お話し」でしかないのです。「仏性」がわからない、「磨く」がわからない、「自我を削る」がわからない、「成熟」がわからない、

お話は、お話で終わっていくのが現実現象です。だから「不安の補完」「未完の完結」循環なのです。

「悉有仏性」(しつうぶっしょう)

この世のあらゆる生物は、すべて仏となるべき性質をそなえているということ。誰も検証証明した人はいません。お話の世界の事です。

 

彼女が伝えたいことは「言葉」「文字(映像)イメージ」遊びで作られた「自我観」が外れると「野に咲く花」と同じである事が自然に感知・検知できるという事です。

「偉い人」「有名な方々」は気づけ無い「自我感覚同期」の世界です。柳澤桂子氏の世界観は、どこまでも、いつまでも、「個人・個別」の「物語」「ストーリー」です。

現実現象として「般若心経」の流布は伝統文化として⇒「不安の補完⇒未完の完結」として、「現象還元」される時期・タイミングを待っていたのです。わかりますか?