「生きて死ぬ智慧」について | 「生身感覚同期」⇒「写楽」

「生身感覚同期」⇒「写楽」

「光還元⇒自然同期」の「気づきの促し」⇒「ウツシ」「転写」「翻訳」の働き作用 「写楽」とは「転写」を楽しむ事です。

「生きて死ぬ智慧」について

「生きて死ぬ智慧」の動画についてお伝えしました。

いのちで読む「般若心経」柳澤桂子2005年10月03日1時間29分22秒

柳澤氏が至った世界観を紹介しました。

繰り返しになりますが「柳澤氏の世界観」を[「おさらい」します。

「悉有仏性・みんな仏性を持っているんです。人間の頭の中に仏性があるんです。

※「頭の中にある」というのは、間違いです。「我が身・全身」が彼女が言いたい「仏性」なのです。

ただそれに気づかないで、磨いてないからわからないだけで、

それに気づいて、あの自我を削ってさえいけば、誰でも幸せになれるんです。

あのそれは私たちの希望であり、あの幸せになって世界が平和になるには、あの人間がそこまで成熟しなければならないと、人間が成熟するという事が、あの、これからの私たちの大きな課題だと思います。」

「仏性がある」「磨いていないからわからない」「自我を削っていけば、誰でも幸せになれるんです」「人間が成熟するという事が、あの、これからの私たちの大きな課題だと思います。」

見る人・聞く人には、全く具体性のない「お話し」でしかないのです。「仏性」がわからない、「磨く」がわからない、「自我を削る」がわからない、「成熟」がわからない、のです。

 

このような「言葉」「文字」現象を「言葉」「文字(映像)イメージ」遊びと言うのです。現象変換された「言葉」「文字(映像)イメージ」遊びの世界だからです。

「自我機能同期」の世界観がいかに、「不安の補完に満ちて、足るに至らないのか、わかりましたか?

恐らく、今お伝えしている事すら「言葉」「文字(映像)イメージ」遊びに転じているのでわからないと思いますが、

「意識現象」とは人間の「言語(言葉)」変換された世界観です。

「仏性」「磨く」「削る」「成熟」「般若心経」「題目」「念仏」「法華経」等々、全の言語変換は「名詞」による羅列・循環現象です。「現象を言語(言葉)変換」しているのが生物個体種「人間(ヒューマン)」の意識現象だからです。

わかりやすく言い直すならば「自然現象を「言語(言葉)変換し、過ぎ去りし、過去を話している」のが「人間(ヒューマン)」の意識現象です。⇒現象後の世界の物語・ストーリーです。

 

「般若心経」は「自我機能同期」の文言の「否定」により構成されています。わかりやすく言い直すならば「言葉」「文字」による「思考・概念」の「否定」です。

繰り返される「名詞」の循環は言葉・文字の否定を伝えているのです。しかし「言葉」「文字(映像)イメージ」遊びの中で育てられた人間はチンプンカンプンになっての混迷・混乱を現象化するだけです。

 

「思考・概念」は「言葉」「文字(映像)イメージ」遊びによる現象化です。つまり「言葉」「文字(映像)イメージ」遊びの「否定」です。

何回もお伝えしています「言葉」「文字(映像)イメージ」遊びは、誕生後の「刷り込み⇒刻印付け」循環現象により生成されているという事です。

「名前・名札・肩書外し」「言葉・文字外し」すると、簡単にわかります。「我が身⇒60兆の細胞同期」の現実現象に意識を向けざるを得なくなるからです。

すると自然に「完全」「完璧」な世界観を感知・検知できるのです。「我が身」の記憶の呼び起こし、湧き出しが自然に現象化して来るからです。

 

柳澤桂子氏の心訳「般若心経」は彼女が至った「自我機能同期」の否定です。わかりますか?

「難病」からくる「痛み」からの自分自身の解放、「自我機能同期」による「探求旅の体験発表」だったのです。

 

「生命学者」と言う肩書は、残念ながら「生身感覚同期」にはなかったのです。DNAの研究をしていても「意識現象」の「写し」「転写」「翻訳」の現象化については気づけ無かったのです。

ただ「痛み」による学びの探究が、既存の「般若心経」の読み方に起動修正を加え、「生身感覚」への気づきの促しをした点で評価されます。しかし「自我機能同期」のままの「一人旅」でしかありません。

参考動画⇒公開用2・抜粋「自我を削る」12分23秒

 

参考書籍

二重らせんの私―生命科学者の生まれるまで 単行本 – 1998/5/1

「植物はなぜ動かないの?」幼いころから生命への興味に胸躍らせた少女が成長し、生命科学者として大成するまでのみずみずしい青春期を、二重らせん構造の発見などでわきにわく分子生物学界の発展と二重映しにして綴る、長篇エッセイ。日本エッセイストクラブ賞受賞作。

「レビュー」から 柳澤氏の「付着人の現象」も「自我機能同期」です。

小さい頃から生き物の命に魅了され感性豊かに育った著者は、その才気を存分に生かして生命科学者の卵となり、アメリカコロンビア大学で、当時最先端の遺伝子生物学を学ぶ幸運に恵まれる。

2年半の留学期間中に出会った高名な科学者達から受けた学問的な刺激と人格的学びは、著者自信が自分の学問的課題に正面から向かい合ってこつこつと実験を積み上げていくことで到達する喜びとあいまって、学問すること、科学することの純粋な喜びや興奮を私たちにも伝えてくれる。

純粋に科学することの喜びに熱中していた当時から時代は下り、いま、科学することが(遺伝子生物学が)金儲けにまみれ、有用性を追い求める競争に成り果てている。

著者は生来のいのちに対する感性と、難病に40年間苦しめられた経験を通して、遺伝子に魅了されながらも、生命倫理を飛び越えて一人歩きし始めたDNA研究に危惧を感じている。
それにしても、次々紹介される遺伝子実験は、科学の歴史に刻まれるような大実験であるにもかかわらず、素人の私たちにも十分理解できるように説明され、興味をそそらせるのは、さすがに一流のサイエンスライターだと思う。
いのち全体を宇宙規模で見渡した科学者が、学問の魅力とまた危険性を、明らかに示してくれる。

 

感想は感想、何百回、見ても、読んでも、何も変わらない、上書き循環を巡るだけが現実現象です。人は「物語」「ストーリー」を「生きている」と言う現実現象です。

だから「自我機能」は「作られしモノ」なのです。

待ち受けるのは「衝撃の五段階」と同時に「こんなはずじゃなかった」で、いわゆる「人生」を終えていくのです。

「人生」ではなく「ヒト・ナマ」「ナマヒト」に気づけば変われます。「生身感覚同期」の極意です。