新卒大学生でも、転職者でも「自己アピール」の内容に気を付けた方が良い。

 

自分が知っている「自己」が志望企業にとって「アピールして価値のあること」ではないからだ。

そして、面接官は「自己アピールの正解」を「自分がアピールするような内容」だと思っているからだ。

 

つまり、受験生や就活生が話す「自分だけの体験」「自分らしさ」は、

面接官にとっては「ほぼ確実に」「聞いても仕方のないこと」だからである。

「違いがある」ことをプラスに評価しない日本人は、面接でも「面接官がアピールしたいこと」と違えばマイナスに評価されるからだ。

 

それは、日本人が「多様性に欠けている」ことの特徴。

欧米人では、まず、相手が「自分と違う点」を評価する。

「違うところが無いはずはない」というのが「自我の根拠」なのである。

 

しかし、日本人は「いい子」「優しい子」「頭のいい子」などと「類型的な自我」を刷り込まれて育つ。

 

人によって「優しくなれる相手」「いい子で振舞う相手」「頭のいいと評価される分野・科目」がある

などと考える余地のない「社会的な全方位からの刷り込み」である。

 

「誰にでも優しくなりなさい」

「いつでもいい子でいなさい」

「好き嫌いを言わずに、全部の科目を勉強しなさい」

 

だから、昨日までは「人格者」だった人が、

マスコミに「スキャンダル」を報道されれば、

「ケダモノ」「人間じゃない」「かわいそうな人」などに「分類的自我」を書き換えられてしまう。。

 

それだけ、日本人の「自我」は「数少ない類型に分類できる」独自性の弱いモノなのである。

 

そして、受験生や、就活生が対面する面接官のもつ「自我」も

「〇〇会社にとっていい社員」

という「多様性のない類型的な自我」なのである。

 

だから、「一緒に仕事ができるかどうか」は「自分たち」と同じ「自我」を持ち得るかという問いに集約される。

そして「異なる考えの人と一緒に仕事をしたいかどうか」という欧米の多様性のある評価とは、全く違うのである。

 

だから、ハラスメントは必然的に起こる。

「相手と自分が違うところがあるのはおかしい」というのが日本の「常識感覚」という魔物だからだ。

ハラスメントの加害者、被害者は、互いに相手を「異種族」「異物」「異形の存在」「化け物」とでも見ているのだろう。

 

面接では、自分が「面接官と同類・同種族・同じ形の生物」に化ける必要がある。

 

外資系の企業の面接で「いろいろな質問をする理由」は「自分と違うところを見つけて、企業の人員構成をできるだけ多様にしよう」とするためである。

しかし、日本人は、「一緒に仕事ができるかどうか(同類・同種族・同じ形の生物)」を判断するために面接するらしい。

だから、受験生も就活生も、リクルートスーツで「自我」を隠ぺいして面接しなければならない。

 

理系の大学院以上の学生は、専門分野が「多様性」の指標になる。

専門性のない文系大学生は、資格、外国語力、外国生活、学歴、国籍などがその指標だろう。

 

日本の就活における多様性とは「個人と個人の違い」ではなく、

資格、外国語力、外国生活、学歴、国籍などグループ(分類・カテゴリー)の違いに限定される。

 

学歴や資格などによる「分類」を多様性と考える。

採用面接で、担当者は、資格、学歴、出身地、国籍などの非常に少ない「多様性」を基にして、

受験生や就活生を分類し、評価する。

そして「多様性」の枠組みは、担当者独自の経験に基づく「並行認識」に直結している。

 

受験者個人に「分類的なレッテルを貼る」のが面接だろう。「特異的に認識」するのではない。

 

例えば東大生が自分らしく面接に臨んで、個性を主張し、「東大生らしくない東大生」であることを示そうとしても、

(彼の「東大生らしさ」が面接官の知る東大生から経験した「東大生らしさ」と一致するかどうかという問題が先行するが)

面接担当者にとっての「東大生」の分類(カテゴリー)に含まれないから「バグ」として処分されるだけになる。

 

面接官は「自分の会社にいる同じカテゴリーに属する社員の最大公約数的属性」に当てはまる人だけしか評価できず、

その他は「バグ」になるしかない。

それが「フィルター」

「フィルター」を強化するのが学校での「偽の多数決(民主主義教育)」

 

戦後の日本企業が「ものまね(同じカテゴリーに入ったふりをする)」が得意で、「異なる考え方が議論して新たな意見・理論を創造する」イノベーションが不得意な理由でもある。

 

しかし「モノマネ」が上手なのは取り柄であることを忘れてはならない。

日本には「二番煎じが美味しい」という考え方があるのも、

大化の改新から外国の制度を真似て来たのも、

明治維新で開国したのも、

「モノマネ」が得意だからと言って良い。

 

日本が何十年も成長しない理由は「グローバル化」によって、世界中が日本のように「モノマネ」できる「情報化社会」になったからだろう。

同じモノマネ芸人でも大きな事務所の芸人の方が早く有名になるのと同じで

「モノマネ」の優劣は資本力で決まる。

日本は中国にはモノマネでは勝てないことは自明。

「一騎当千」も「多勢に無勢」で勝てない。それに勝とうとした悲劇が日米の太平洋戦争だ。

 

さらに日本の学問が「輸入」であるにもかかわらず、日本の学者の語学力が乏しいのも原因となる。

「グローバル化」になっても「(輸入した)学問・学説の正確な理解・認識」ができないのは、学者が「英語すら」まともに理解できない日本の英語教育にある。単語の意味ですら多様性がないから、逐語訳は「売れない芸人の意味不明なギャグ」にも劣る品質。

英語力では、中国や韓国の足元にも及ばない。

 

「モノマネ」は学校で躾けられる。

違う服装をしていると、教師やクラスで「奇妙・異物」と評価される。

学校の制服は貧富による差別を解消するために採用されたという認識がある。

しかし、本当の差別は、「制服(同じ)でなければ差別をすることになる」と考えた教育にあったのだろう。

 

しかし日本の企業は「モノマネ」で食っているのだから、モノマネのうまい社員を採用するしかない。

だから就活の面接では「自分が人と違うところをアピールするのはやめた方が良い。」ということになる。

日本の面接は「多様性のない分類」を使って採用を決めているからである。

 

急に、個性のある人間を採用すれば「UFO」のように話題にはなるが、活用されることはない。

 

「自己の個性」をアピールすることは、就活では全く無意味と言って良い。

履歴書に個性を書く場所が「長所・短所」しかなく「免許欄」よりも小さいのが、日本の個性が何を示すかの証拠。

 

推薦制を「先生の評価が高い(ひいき)」「コネ」「受験技術が下手」「コンプレックスになる」などと「多様性」のない社会評価を当たり前にしてきた「ツケ」が「生産性の低下」の原因になっていると誰も気づかないのが残念と言わざるを得ない。

 

ただ、それはすぐには変わらない。

 

だから、自分がどの分類に入るかは、面接官が決める。

(受験者の個性や人柄は面接官が決める)

結局、受験者が思っている「自己」「個性」は、面接官にとっては「聞いても仕方のないこと」になるのである。

就活において「多様性を受け入れられない」のは現代日本企業が「モノマネ」で生きていくしかないという現状に起因している。

今の就活では「自己アピール」の評価は自分の属する「カテゴリー」をいか上手に意識させるかにかかっている。