『ただ ふつうに』 | 手話通訳者のブログ

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ブログ記事『人のため』に、cotocoto-chomさんからコメントをいただいた。ありがとうございます。



たいしさん
coto-cotoです。とりあげていただき、恐れ入ります ありがとうございます。
んーーー、私の思っていることはどこまで伝わっただろうか…どれだけ表現できただろうか…と思っています。…とは言っても、すべてわかってもらおうとするなんて そんなこと求めてはいけないのだろうけれど。

つまり…、私のいつも思うこと、『ただ ふつうに』ということ。なんです。
人のため、って上から目線だ、自分中心だ、と言ったけれど、かと言って 自分のためか?というと、そういうわけでもなくて…そう正直に言えばいいのか?と言うとそういうわけでもないし、いや、実は自分のためでもいいんじゃないかと思うのです。それが本当に、相手の望むことであるならば 自分も良し、相手も良し、で最高なんです。『やってあげる』的なやり方でないのなら。でも本当は、『どちらのため』とかそういうんじゃなくて、

”相手にとっての『ふつう』ってなんだろう”

というふうに考えられないだろうか、と。

自分にとっての『ふつう』がある。
相手にとっても『ふつう』がある。
…それは、同じってこともあるし、違うこともあるわけです。
”何か私語をしている…何を話しているんだろう”
私語 雑談の内容も知りたい というのはその保護者の方にとって、『ふつう』のことでしょう?
ハンディキャップを抱える人やその家族にとっても、あたりまえに『ふつう』がある、ということを忘れて 自分にとっての『ふつう』で接すると、がっかりだったりぶつかったり、ということが起きるわけですよね。どんな人に対しても、…それは健常者と健常者の間でも、常に相手にとっての『ただ ふつうに』 を考えることも必要なのではないかな、と思うのです。

人間が「いい天気!」と言っても、
カエルは「雨が欲しい、最悪だぁ!」というかもしれない(笑)

明らかに それおかしいだろう!間違ってるだろう!ということも、いやその人にとっての普通なんだから仕方ないねーと思えたらいいけれど、なかなかそうはいかない。なんでそんな風に考えるかなあオマエ!と思うことも多々あります。そこで困ったことに存在するのが『認知の歪み』ということなのかな、とも思います。一般、常識、平均的な考え というもの、そこで既に認知の歪みがあれば、どうやったって通じない。
こればかりはどうしようもないのだけれど、自分に認知の歪みがあっても すべての人が常に相手の『ふつう』を考えられるなら、みんなもっとわかり合えるし、ぶつかったとしても尊重が存在すると思うのですが…。。。

私は『認知の歪み』があります。正しくないと分かっているのにそうなってしまうので、ずっとこんな病気で苦しんでいます。
だから偉そうなことなんて言えません。
でも、世の中もっと、みんなが みーんなが。自分にとって、また相手にとって、の『ただ ふつうに』を考えることができたらいいな、と思うのです。ハンディキャップを抱える人やその家族は特に、そう思っている人が多いのではないかな、と思うのです。

たいしさんには批判されるかも…と思ったのですが、私が悲しく思っていることを書いてみたかったのです。手話通訳を必要となさる方たちにとってもの『ふつう』を、見失っている人 または 考えたことがない人たちが、上の方にいるのかな…なんて思ったので。




>手話通訳を必要となさる方たちにとってもの『ふつう』を、見失っている人 または 考えたことがない人たちが、上の方にいるのかな…なんて思ったので。

全くその通りです。
立場の強い人が、弱い立場の人に向かって、
「普通は、こうでしょ!?」
と言うと、これは圧力になります。
そして自然の成り行きで、普通はふつうでなくなります。

手話世界の偉い人たちが振りかざす「普通」は、弱い立場の人たちを苦しめる圧力に他なりません。

虚心坦懐に、相手の立場や気持ちを慮る気持ちがあれば、上記のような圧力は生じないと思います。