読取り通訳 | 手話通訳者のブログ

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ろう者が講師を務める講演会、手話での講演。
手話通訳者として逆通訳(読取り通訳)を行うことになったら、もし可能であれば、事前に講師に会いにいく。
打合せがしたいんや。
どんな内容の話をするのか、事前に聞いておきたい。これをやると、通訳の精度がかなり上がる。

はっきり言って、ぶっつけ本番では、抜ける。
どういうことか。
例えば、講師の手話をそのまま棒読み通訳した場合、
「私、以前、誕生日、お祝い、もらった、新しい、綺麗、花、カゴ、ありがとう」
となったとする。
手話を文字で表現することはかなり無理があるから、申し訳ないが、想像力を働かせながら読んで欲しい。

上記は講師が去年の自分の誕生日の思い出話をしているのだが、「もらった」と「新しい」の間で、場面が変わっている。
「もらった」までは単純に聴衆(会場にいる人達。手話だから「観衆」と言うべきか)に向かって語りかけている。
しかし、「もらった」の直後、講師は去年の誕生日にタイムスリップし、贈り物をくれた友人と向かい合っている。
贈り物を見て表情が輝く。
このあたり、もし日本語訳をつけるなら、「あれまあ、なんて綺麗な!」ってとこかな。
そしてまた観衆に向かって説明。
「綺麗」「花」「カゴ」友人にもらったプレゼントを説明しているわけ。
そしてまた去年の誕生日にタイムスリップして、友人に向かって、「ありがとう!」

「タイムスリップ」という表現がわかりにくいかもしれないが、手話で過去に起こったことを話す場合、例えばそれが誰かとの会話なら、その会話をそのまま再現することは多い。
読取り通訳する場合、上記の「ありがとう」は通訳する必要なし。
日本語として不自然になってしまうからだ。

手話をできる限り日本語に変えていく、という方針で読み取り通訳するなら、「友人にお礼を言いました」という読み取りが入るかもしれないけど。

上記のように、意図的に日本語に置き換えない手話もある。
通訳する上で、読み取った手話の取捨選択が必要なのだ。

しかし、ぶっつけ本番で通訳する場合、取捨選択の判断ミスが起こる。
上記の「抜ける」とはそういう意味。

通訳者の力量によって「抜ける」分量は大きく差が出るものの、通訳者がどれほどの達者であっても、ぶっつけ本番では必ず抜ける。