息子のコウマ@15歳染色体異常で自閉症。
日曜日は母の日だった。
我が息子は、難しいクラシックの曲をピアノで弾けるし、ニュートリノがなぜ様々な物質を通り抜けられるかも説明できる。
でも、私が母親だということは薄っすらしか認識できないし、感謝の気持ちを理解することもできない。
だから、我が家と母の日は無縁だ。
5月生まれの息子の誕生日は、毎年週末である母の日近辺になることが多く・・・
息子の誕生日を祝う日に当てることが多い。
だから、我が家に母の日は存在しない。
毎年、母の日は苦しい。
思い出してしまうのだ。
生後数週間で起きた、あの急変の日を。
生まれたてで保育器に入れられていた頃、私は確かに息子との絆を感じていた。
小さく生まれてしまったけれど・・・
まだ、お腹の中にいるような安穏とした顔で眠る息子を保育器の外から眺めるのは幸せだった。
まぁるい顔で甘い匂いを漂わせて眠る息子を見るのは幸せだった。
あの日。
息子に対して、「あの子さえいなければ」そういった看護師さんが夜勤であることにもっと気をつけるべきだった。
息子を邪魔だと思った原因は些細なことだった。
病棟で、一枚しかないベビー服を息子がいなければ自分の担当のお気に入りの子供に着せられるのに。
それを、その子の母親に話しているのを昼に偶然聞いてしまった。
20時ギリギリまでNICUに居て、お願いしますと顔を上げた時、あの看護師さんが目の前にいた。
完全看護だから、赤ちゃんを置いて帰らなければならない。
NICUの扉を出るときに、振り返って、もっともっと頭を下げればよかった。
なんども後悔している。なんども夢に見る。
次の日の昼、面会時間の一番最初にNICUに行ったら、安穏とした息子はもういなかった。
「びっくりしないでくださいね。昨日の夜、急変して今は別の場所にいます。」
ナースステーションの一番近くに連れて行かれた息子は変わり果てた姿で、挿管されているからかムンクのような苦悶の表情をしていた。
反り返り、脳にダメージを受けたことは明らかで・・・
数日後、あの看護師さんが私の耳元で囁いた「あなたが、弱い子を産んでしまったから・・・」。
彼女は結婚すると言って、さらに数日後に病院からいなくなった。
彼女がいなくなった後の病院で、お医者さんも看護師さんも懸命に息子を救ってくださった。
だから、今がある。感謝している。
確かに彼女のいうように息子の急変は、息子の病気のせいかもしれない。
低血糖、低酸素になってしまう理由が、息子にあったのかもしれない。
でも、あの日「あの子さえいなければ」と言われたことで・・・
私がもっともっと彼女に頭を下げれば、どうにか助かったんじゃないかという後悔は消えることがない。
苦しむ息子をすぐに助けてくれたのだろうか、そんな疑念が今もぬぐいきれない。
あの日以来、子供との間に感じていた絆のようなものが消えた。
息子は私がわからなくなったみたいだったし、呼吸すらできずに生きることだけに必死な様子を私も見守るしかなかった。
あの日、息子の心の大部分は消えてしまったように思う。
感情というものを失ってしまったように思う。
人として大切なものと引き換えに、息子はまだ生きている。
体温がある息子がいてくれる。
新しく問題を発生させて、それに頭を悩ませることができるのは息子が生きているからだ。
眠る手を握れば、暖かい。足を握れば、蹴り返される。
母の日は、ただただそれに感謝する日。
未だ時を刻む息子の母で居られることを感謝する日だ。
それでも、年に一回だけ。
空に向かって問う。
私がお母さんだって知ってくれている、君は居たよね。
ほんの少しだったけれど、心が通じる息子がいたことを今日だけは思い出す。
空と息子の奥深くにいるはずの、あの安穏とした息子を思い出す。
成長とともに本当に稀に、息子の中に、息子を見出すことがある。
またいつか、ちゃんと会えるかな。
染められるだけの、人工的なものなのか。
それとも幻と言われてもいつか夢は叶うのか。
我が家のカーネーションは例えるなら、空色なのかもしれない。