息子のコウマ@15歳染色体異常時で自閉症
国連から日本の障害児の分離教育について、やめるようにとの勧告があったようだ。
今、中学三年生の息子はもはや義務教育のほとんどを終えたわけだけれど・・・
終わりが近づいた今だからこそ、深く理解して書けることがある。
日本のインクルージブ教育が進まない理由は、根が深い。
はっきり書く。
日本の特別支援教育は、金子みすゞさんの詩のように「みんな違って、みんないい」ではない。
個々の能力が最大限に発揮できるように支援する教育でもない。
しかし、甘い謳い文句に惹かれて片道切符で特別支援教育に足を踏み入れる親子は少なくない。
特別支援教育の終点は、障害者就労であって、そこには求められる人物像がある。
「素直で、扱いやすく周囲と足並みが揃えられる子」である。障害者就労に求められる人物像のチェック表を中学3年生の今、頻繁に見せられる。自閉症の我が子にとっては絶望でしかない。チェックリストを意訳すると「扱いにくい自閉症には来てもらったら困る」となるからだ。障害者が雇用される時に求められる、均一にして唯一の価値に当てはまらぬから、我が子は劣ると言われて、長い日々心の傷を重ねてきた。
障害者の企業就労に求められる人材かそうじゃないかのスクリーニングは残酷だ。
通れなかった人間のいく末は、作業所、生活介護施設等である。
我が子のように知的障害として認められなくなった人間が行く場所はない。
障害者就労に求められる人材の育成が特別支援学校高等部の目的であり、そこに向けての中学校特別支援学級であり、そこに行くために小学校の特別支援学級がある。
学力は、必要ない。
扱いやすい人材か、そうじゃないか。
均一の価値に基づく人物形成と、みんな違ってみんないいはアンビバレントだ。
日本の障害児教育は、先進国らしく個性重視教育をしていると対外的に見せたいという見栄と、法に基づく障害者雇用に滑り込ませるべく、企業が雇いやすい没個性の障害者の育成という矛盾した構造にあると、個人的には思う。
義務教育の総時間数は約10000時間。
特別支援教育の中に入れば、学び方を変えれば学べる子供達ですら、学校でそれらを学ぶ時間を失うのだ。
鶏が先か、卵が先か。
10000時間を失った頃には、周囲の健常児とは大きく差が開く。
知的障害者じゃなかったはずの子供たちも、この時点では、ほとんどが知的障害者になっている。
矛盾した二重構造を担うのは、彼らだ。
障害なき障害児であったはずな障害者は、企業が求める人材になりやすい。
全ては、書類上うまく回すためのトリックにすぎない気がする。
日本の障害児教育のみならず教育全体で思うこと。
困り感がある子供が、劣るとされて置き去りになっていることだ。
困った子は、困っている子だ。
困っている子供に手を差し伸べない教育者のなんと多いことか。
(もちろん、よい先生もいることは否定しないけれど。)
困った子を切り捨てて、困らせない子だけが教育を受けられるこの国は、特別支援教育にしてもインクルージブ教育にしても何か間違えている気がしてならない。
ふるいにかけられて、滑り落ちていく子供たちの行く末が悲惨なこと。
どうか目の前から巣立って仕舞えば責任はないとばかりに見て見ぬふりをしないで欲しい。
居場所を作ることは箱を作って閉じ込めることじゃない。心が伴わなければ、それは居場所じゃない。
障害児も、健常児も、貧困や不登校等の繊細な問題を抱える子供たちも。
誰もが安心して心満たされて育つことができる教育をどうか目指して欲しいと思う。
個々の持つ能力を最大限に発揮して社会に還元できる教育と謳う我が国がなぜ、国連から勧告を受けたのだろうか。
法が絵に描いた餅になっているからではないのだろうか。ダブルバインドの矛盾が不可能を生み出しているからではないだろうか。大人の事情で時間を奪ってはならないと思うし、子供たちの未来が犠牲になるのであれば仕方がないでは済まされない。
真に国際社会に追いつく特別支援教育とは何か。インクルージブ教育とは何か。
障害児のみならず、子供が健全に成長できない今の環境を教育の仕組みを考える立場にある偉い方々に今一度考え直していただきたい。
私は特殊な状況にある障害児の我が子を育てることが苦しかったし、いまも苦しい。
誰も置き去りにしない社会を実現して欲しいと思うし、私たち親子と同じようにマイノリティゆえの苦しみを未来子供を育てる母親が感じなくて済むように切実に願っている。
*****
長くなりました。
染色体異常で自閉症、半分ギフテッドで発達の凸凹が激しいが故に知的障害ではなくなった、まだまだ困り感が沢山の、、、そんな息子の母親の立場から書かせていただきました。
一個人の意見に過ぎませんし、地域性も大いにあると思います。
ここまで読んでくださってありがとうございました。
感謝