息子のコウマ@15歳染色体異常で自閉症
今、学校の宿題用に漢検ドリルを使っている。
学校の先生と相談して、使わせていただいている。
中学の先生は、「頑張ってるね」と認めてくださるので、息子は嬉しそうに次の級に進んでいく。
5月末に7級からスタートして、今は4級のドリルに突入した。
5級までは、小学校の配当漢字ということもありほぼパーフェクトに解き終えたけれど。
4級からは、中学生の配当漢字となりパーフェクトというわけにはいかなくなってきた。
「ホウフクゼットウ」「ハクリタバイ」「ベンゼツがうまい」など。
書き間違えることも出てきた。
四字熟語も入ってきて、なかなか苦戦している様子
自閉症児である息子は基本、日本語を上手に話すことができないハンディキャップがあるのだけれど・・・
LD(学習障害)の中でも、とある能力だけが著しく欠けてしまうことがある。
息子の場合は、話すことが難しい。語彙は多く知っていても、言語の表出に問題があるのだ。
話し言葉優位の現代社会の中で、話せないということはコミュニティの中で案外致命的だったりする。
話せないということで、周囲から言葉を知らないと判断されることも多い。
話せない、言葉を知らない、知能が低いと結び付けられてしまうのだ。
しかし。
隷属という言葉の類義語に「服従」と書けていたり。
努力の類義語に「精進」を選べたり。
中学生の範囲に入って難しくなってきたとはいえ、言葉を案外よく知っているのだなと・・・
話し言葉の不自由さと比例しない語彙の豊富さに、改めて衝撃を受ける。
横で見ていて、新しい発見をしたような気持ちになった。
中学生としては、当たり前の知識なのかもしれない。
でも、教育指導要領に則った義務教育をほとんど与えられなかった知的障害児としては、よく知っているなと。
捉え方一つで、大きな差が生まれる。
来年度、息子を引き受けてくださる予定の特別支援学校普通科高等部では・・・
先輩方は「ひらがな」を学んでいると聞いた。
おそらく、「言葉を知らない」と判断される息子も来春から同じように「ひらがな」の練習をするのだろうと思う。
今、高校進学(特別支援学校を含む)を目前に控えて、色々な学校を見学させていただいて思うことがある。
中学生として、知っていてほしいこと・・・中学生に求められること・・・
それに及ばないということと、特別支援学校で学べることのギャップがあまりにも激しい。
学びは地続きのはずなのに、崖の上と下かのように、登れない壁が立ちふさがっている。
あっちはあっち、こっちはこっち。
学校という枠組みの中が重視される一方、個人の能力にはあまり関心がないようにすら思う。
表面だけを見て処理されていくような感覚に、すこしばかり無念さのようなものを感じてしまう。
言葉を知らない事と、言葉を話せない事、は違う。
外に出ているものは同じかもしれないけれど、中に広がっているものは違うのだ。
言葉を知らない事と、言葉を話せない事、は違う。
それにほんの少しでも気づいて息子を導いてくださる先生に、今後も出会えればいいな・・・
今はただ、そう思うことしか、できない。
私たちは、未来が限られていることに気づくのがあまりにも遅すぎたのかもしれない。