先日、人生における大事な決断をしたので、書き残しておこうと思う。

どうしようか、ずっと悩んでいた案件があった(詳細は書かない)。

ずっとずっと悩んでいて、心の奥底では「No」がわかっていて、認めたくなくて先延ばしにしていた案件だった。こういう時面白いのが、本が、適切なメッセージに導いてくれることだ。本の神様が導いてくれたとしか思えないご縁である。

今回私に届いたメッセージは、以下だった。

 

 

人生と生活は違う(遠藤周作)

 

出典はこちら。


 

 

生活は埋めるもの、人生は生むもの

遠藤先生は中国古典「韓非子」の中から、「本当に役に立つことは目に見えない」という学びを抽出している。外国の都市では街路樹の整備にずいぶんとお金をかけるようだが、街路樹は役立たないようで実は市民の潤いになっている、と例を出す。そして、

 

『さしあたって役にもたたぬことの集積が人生をつくるが、すぐに役に立つことは生活しか作らない。生活があって人生のない一生ほどわびしいものはない。』

 

と締めくくっている。この言葉に出会ったときに、視界が晴れる思いだった。

 

なぜ視界が晴れたのか?

 

私にとって、その選択肢は「生活」にはつながるが「人生」にはならない、そう感じたのだ。

 

まとめてみた

 

あまりに響いた言葉だったので、自分なりの切り取り方でまとめてみた。

 

生活は、金銭欲や食欲や物欲などを満たす行為で、大体誰もが感じるもので、「何をするか」という外側のことをさす。欲求が満たされるので「不満足の解消」にはなり、いわゆる「楽しい」と表現される。が、欲求は次から次へと湧いてくるため、満たされるとその前の欲求は忘れてしまうことが多い。周囲から見ると、物品や地位の保持による欲求の充足は「意味のある・役立つ」ことだと思われる。マズローの5段階説でいうと、「生理・安全・社会・承認」あたりの下の層ともいえる。

 

一方、人生は逆であり、私にとっては思い出やフラワーアレンジメントの時間こそが私の「人生」と呼べる時間だ。自分にしか感じられない、内側の感情であり、満足感をもたらす。「何をしたか」でなく、「それをどう感じたか」である。生活が「ディズニーランドに行く」という行為だとしたら、人生はそれを「どう感じたか」だ。どんな人と行っても「普通に楽しい」だろうが、気心知れた友人と行く時の「悦び」を感じるほどではない、と思う。きっと友人とだったら、人気のアトラクションに乗れなかったとしても「面白い」と内部から湧き出る気持ちがあり、何度も反芻し味わいたくなる。周囲から見ると一見ムダに見えるが、自分にとっては大事なことである。マズロー的には、「自己実現・自己超越」などの上層ともいえる。

 

まとめると、生活は「埋めるもの」で、人生は「生むもの」だ、そう感じた。

 

今後にどう活かすか?

「それは人生的な、何か大事なものを生み出す選択なのか?」という問いかけは、今後の人生でも大事にしたい問いかけである。

 

「役に立たないだろうけど、どうしてもやりたい」ことは、これまでも何度も私の前に姿を現してきた。それは、お菓子作り・英語・茶道・フルート・・様々に形を変えて私の人生を彩ってくれた。茶道はさすがに付き合いが長かったので、茶道への好奇心や興味がぽっかりなくなってしまった日には、大事な人がいなくなってしまったかのように不安定で悲しい気持ちにもなった。でも、時間がたった今は、「茶道の神様との時間が終わった」だけで、空いたスペースには何か別の神様が来る、と捉えられるようにもなった。

 

「私」の人生だったなぁ、と満足してこの世を去れるように、「周囲からしたら意味不明でも、自分にとっては超絶大事なこと」と真剣に向き合いたいなと感じた。その行動の1つは、自分の気持ちに、こうやって言葉をあてることである。

 

紙1枚まとめ

自分にとって超絶大事な1枚。