「何か言いたいことはありますか?」
不意にこの質問を受けて、、、
言いたいことを語り出せる人と、語り出せない人がいるのではと思う。
もう少し具体的に
「何か食べたいものはありますか?」
1年に1度しか会いに来ない人にこう聞かれたら、、、
例え、その時ものすごくお腹が空いていてカツ丼とか食べたくても私は
「ないです。」
と言ってしまうと思う。
「どこで生活したいですか?」
この質問の先にまだ生活したこともない施設での生活が想定されていたとしたら、どう答えればいいんだろう、、、
「何か言いたいことはありますか?」
年に一度数分しかご縁のない後見監督人伊東秀文弁護士から不意にこの質問を受けた母は答えた。
「ありません。」
でも、
本当に言いたい事はなかったのかな?
親族の言葉は誘導であると恫喝され、、
母はある日突然、脳出血で倒れ、一時は植物人間に準じるような状態だった。
しかし、少しづつ軽快した。
ほとんど動くことさえない状態から、自分で食事を取り、会話をするようになった。
横浜そごうまで行って買物をした時は、倒れた直後の母を思い出し感動した。
辛いが左脳の出血による後遺症で半身を動かすことが全く出来ない。
自分が言いたい事を表現するために必要な単語を思い浮かべることが難しい。
それでも、具体的に尋ねれば答えが返ってくる。
意思を持っている。
「何か言いたい事はありますか?」
これで終わらせていいのかな?
被後見人と言っても人それぞれ。
植物状態で全くコミュニケーション不能の方もいらっしゃると思う。
じっくり耳と心を傾ければコミュニケーションをとり、意思を確認出来る人もいる。
しっかりと理論立てて自分の意思を語ることができる被後見人にも私はお会いしたことがある。
この人が被後見人だとしたら、お年寄りの半分は被後見人ではないかと思えるくらいの。
後見制度は自己決定権や意思の尊重というような理想又はキャッチフレーズを掲げ続けている。
でも思うのだ。
自己決定権どころか、そもそも本人の意思を聞こうとしていないんじゃないかな?
後見制度を使うような事理弁明能力のない人の意思に耳を傾ける必要はないと考えている士業さん、割といらっしゃるんじゃないかな?
だとしたら、後見制度推進の理念
「自己決定権の尊重」
ってなんだろう?
たしかに、
自分の意思を表現することが難しいから後見制度を使うのだと思う。
判断能力に問題を抱えているから後見制度を使うのだと思う。
でも、そういう人のためにも日本には
「基本的人権」
という考え方があるんじゃないかな。
見知らぬ人の人生に大きく関わる。
例え、言葉にならないとしても、本人の意思を確認するための試行錯誤が必要なのではないかな?
難しい事だとは思う。
でも、切り捨ててはいけないんじゃないかな?
特に人の権利に関わる事が仕事であれば、、、
後見制度を意思決定支援制度へ!
という声もあるようだ。
でも意思支援や自己決定権の尊重を掲げる制度を
本人の意思や自己決定を封印するために使う弁護士さんもいらっしゃる。
意思決定支援
まだまだまだまだまだまだ遠い。