ゴールデンウイークの合間に、東日本大震災津波・地震被災地の現状視察のため、党の用務で岩手県、宮城県の沿岸部を同僚議員とともに訪ねる。

 福島の復興は道半ばですが、岩手、宮城の津波・地震被災地の「今」を久し振りに見ることと併せて、市長、町長さんの思いを直にお聞きすることとしました。

 できる限り多く回ることを考え、火曜日(30日)の夜に盛岡に入り(夕方、自民党岩手県議会議員と意見交換)、水曜日と木曜日は朝から夕方まで移動。1日(水)の朝、盛岡から太平洋沿岸の宮古市に向けて走り、次に山田町、大槌町、釜石市、陸前高田市と南下し、宿泊は南三陸町のホテル観洋。2日(木)は宮城県を回り、南三陸町、気仙沼市、石巻市、女川町と移動。最後は仙台から新幹線で東京に。20時半、東京に着く。

 9人の市長、町長本人との意見交換は必ず行い、そしてできる限り多くのところを訪れることに心掛ける。山田港での養殖サーモン現場(洋上のいけす現場にも出掛ける)、災害公営住宅のコミュニティ形成支援員との意見交換、高栄養価のピーカンナッツ試験ほ場現場、南三陸町社協職員との意見交換、そしてバスで移動中にまちの状況を市町長などから説明を受ける。

 もちろん震災遺構、記念公園、伝承館、大川小学校などには伺う。献花・黙とうを何度も行う。

 各自治体からは、コミュニティ・心のケア等被災者支援の継続、養殖漁業への支援、防災対策の強化、未利用地利用への支援、災害援護資金の償還延長、大規模水門等の維持管理支援、解体撤去費への支援、インターチェンジのフル規格化等のインフラ強化などの要望、注文を受ける。

 一方、南三陸町の佐藤仁町長、女川町の須田善明町長からはもっぱら能登半島地震への復旧、復興策について意見を伺うこととなる。お二人とも他の被災地への思いは大変強いものがあります。

 心に染みること、心に刻まねばならないことも幾つかありました。

 一つは、石巻市の震災遺構大川小学校で娘さんを津波で亡くされた佐藤敏郎氏の説明、お話でした。佐藤さんとは10年前の女川中学勤務時からの知り合いです。

 大川小学校では全校108名中、74名の児童が死亡(あるいは行方不明)、教師も10名が亡くなっています。学校管理下でこのような多大な犠牲を出したのは大川小学校以外にありません。

 佐藤先生(元女川中学校の国語教師)は、大川小は命の大切さやよりよい学校のあり方を確かめる場所であるべきで、「未来を拓(ひら)く」(大川小の校歌のタイトル)始まりの地であると熱く訴えられました。誰々のせいにするだけでなく、一人ひとりが命の大切さを学び、実践すべしとの考えは、心に強く響く訴えでした。

 二つは、気仙沼でのこと。市の伝承館は震災遺構でもある気仙沼向洋高校にあります。映像センターに震災からわずか10日後に行なわれた階上(はしかみ)中学校の卒業式の様子が流れていました。

 避難所でもある中学校の体育館で式がなされました。多くの被災者が体育館にいる中での卒業生代表の答辞は感動的でした。

 「命の重さを知るには大き過ぎる代償でした。しかし苦境にあっても天を恨まず、運命に耐え、助け合って生きていくことが、これからの私たちの使命です。」涙ながらの答辞は映像を見る私の心を打ち、目頭を熱くさせました。

 そして三つ目は連休前に能登地震の視察に能登町役場に行った時のことでした。役場に入って正面の大きな用紙に「復興再生」と書かれていました。断水のため能登高校書道部の生徒が湧き水で筆を洗って書き上げたとのこと。

 用紙の右下には「能登に向かう県内他県ナンバーの多さに涙が出る。復興支援のステッカー、横断幕に勇気をもらう。能登に届く全国からの応援に深い感動と感謝。ありがとう」と記されていました。

 若い世代の不撓不屈(ふとうふくつ)の精神に私も勇気をいただきました。

【南三陸町復興祈念公園】



【釜石祈りのパーク】

【震災遺構大川小学校】



【震災遺構気仙沼向洋高校】