朝5時半起床。6時に「水沢北ホテル」を出発。ホテルが「おにぎりパック」をサービス。有難いことです。徳田さんの秘書の風早さんが昨晩、東北自動車道のSAまで行ってガソリンを満タンにしてきたとのこと。偉いものです。


 水沢ICを北上し、昨日と同様花巻ジャンクションを右折し東和ICから一般道。太平洋側へ向かい釜石市へ。市街地を通って北上し、大槌町へ。


 途中水門を破って30m近い津波が襲った被災地を見る。


 午前9時過ぎ目的地の大槌町安渡(あんど)小学校に。地元の岩崎友一(ともかず)県会議員、お父さんの岩崎大槌町町会議員が案内。


 岩崎さんの指示を受け、車に積み込んだ荷物の半分をお届けしました。


 小学校は避難所になっており、雑然としていてまだまだ落ち着かない感じ。人数は約300人とのこと。物資はそこそこ集まっている感じですが、燃料の確保が極めて厳しいとのこと。必要な物資の安定的な確保はまだまだの感です。電気はいまだ復旧せず。しかも目途も示されていません。大阪市立大学の医療班が入っていました。


 岩崎さん親子の案内で町内の被災者状況を見歩きました。港、役場に市街地などなど。まるで戦場です。津波は人もモノも呑み込み、建物の土台なども根こそぎ洗い流します。建物、家屋のガレキは街を覆い、車はあらゆるところで横転し、潰され、無残な姿をさらしています。大火事も起こりました。焼け跡の残る建物、家屋、車、電信柱、木、のり面の草も目にしました。


 三陸海岸は津波被害の多い地域ですが、岩崎さんのお父さんの話ではチリ地震津波(1960年、全国で死者、不明者142人)、昭和8年の三陸津波地震をはるかに上回る津波だったとの話です。


 高台にある中央公民館に行きました。仮役場、自衛隊・消防の拠点があり、避難所もあります。


 町長は津波でお亡くなりになりました。東梅(とうばい)副町長、伊藤教育長にお見舞いと今後のことを少しお話しました。


 副町長からは応急対策として一つは電気・通信・水道などのライフライン確保。二つはガソリン、灯油など燃料の確保。三つは仮設住宅の建設。この三つを要望されました。仮設住宅は町内で2000戸必要(広さは16万ヘーホーメートル、16ha)必要だが今は500戸分しか用地の手当てができていないとのことです。


 教育長からは町内7つの小・中学校の再開をどうしていくのか、できれば分散したくないとの想いを伺いました。


 最後に市街地から数キロはなれた避難所に行きました。支援物資の残りを全て下ろしました。


 避難所には約100人。「大変ですね」「お体を大切に」と声をかけながら長島さん、徳田さんと回りました。岩崎県議が我々3人を皆さんに紹介しました。神戸の震災の谷、山古志の震災の長島、奄美の集中豪雨の徳田は各々一言御挨拶させていただきました。


 安渡小学校の避難所に比べ安らぎを感じました。長島さんが言っているように「安心と安らぎ」を感じさせない避難所は今後が心配です。二つの避難所とも地元以外のボランティアはほとんど見かけませんでした。ここにも「燃料」(ガソリン)を手当てできていない現状が支援活動に影響を及ぼしていることがわかります。


 お世話になった岩崎さん親子に別れを告げ釜石に下り、遠野市へと西進し、午後2時頃遅い昼食。


 東京へと長い帰路です。20リットル入りのガソリン缶を3つ車に積んでいましたが、ガソリン不足の深刻さにつけ岩崎さん親子に2缶置いてきたので、ガソリン補給をしなければたどり着きません。


 東北道のSA・PAは食糧も少なく、タバコは全くなく、トイレも仮設が目につきます。ガソリン補給はなかなかできません。


 仙台を5時半過ぎ、福島を過ぎても補給箇所がありません。やっとあったと思っていたら「軽油」のみ。


 関東地方に入り、栃木県北部の那須PAが最後の望みでした。給油OKでした。しかも緊急車両は満タンです。1時間以上待って給油。4人はホットしました。仮に補給できなければ那須ICで下り、近くの東北新幹線、那須塩原駅に車を置き、新幹線で東京へ向かうしかないと思っていました。(東北新幹線は那須塩原駅以南は運行しています)。


 栃木、埼玉を過ぎ東京へ。赤坂宿舎へは夜11時すぎ。今日は約750km走ったとのこと。2日間で約1400kmこんなに長い自動車での出張は私の記憶にありません。


 それにしても重い現実を突き付けられた岩手へのハードな物資輸送でした


写真:支援物資輸送