母が亡くなりました。


 4月の初めから近くの村岡病院に入院していましたが、連休前から徐々に悪化し、6月2日(火)午前5時ちょうどに息を引き取りました。


 6月1日(月)は三田で朝立ちの予定でした。日曜日の夜10時頃三田のホテルに容態が急変したとの連絡。急いでタクシーで村岡病院に飛びました。病院で一夜を過ごし、母の状態は悪いながらも安定してきました。2日(火)に会期延長の衆院本会議が予定されていたので、1日(月)の深夜東京に着きました。翌早朝5時、宿舎に母の死亡の連絡が入り、一番の飛行機で再び但馬に帰りました。付添いで泊っていた姉によると母の最後はあっという間のことだったようです。


 山深い地(隣町の旧温泉町春来)に生まれた母は、大阪の女学校に入り生野女学校を卒業のあと郷土で教師をしていました。結婚後父洋一の妻として半世紀の政治生活を支える一方、生活のために雑貨店、新聞・牛乳販売店、薬店、縫製工場などを切り盛りし、私や姉、弟の三人の子供を育てました。平成3年からは特別養護老人ホーム2つを運営する但馬福祉園の理事長を努めていました。


 亡くなる前一ヶ月間は癌の進行のためほとんど食べられず飲めず、体も小さくなり腕や太股もやせ細っていましたが、最後まで弱音を吐かず、辛抱強く、気丈で、日曜日までは意識もはっきりしていました。


 自宅近くの長楽寺で行われた葬儀の日(木)は、雨も止み地元川会区などの皆さんの献身的な協力もあり、多くの方々に会葬していただきました。骨揚げの時の母の骨は癌のせいか肋骨は弱く、痛々しく、母の辛さを想うと子として目頭が熱くなりました。母は父より早く亡くなることが唯一の心残りではなかったかと思います。本当に長い間、地元川会区を始め但馬、選挙区の皆さんにお世話になり、支えられ、御厚情をいただきました。ありがたく、感謝の気持で一杯です。


 古茶を手に 母の遺影を 仰ぐ夜