ブログはかなり久しぶりだな。
何年だろ…笑
んなわけで、今年もダラダラ長ったらしいポエムでも書くわ。笑
文才ないから、よく分からなかったらごめんね。笑
今日は大切な人の命日です。
俺を腹痛めて産んでくれた、おかんの命日。
言い方を変えれば、1つの「当たり前」がなくなった日でもあります。
意味分かるかな?
あえて言葉使いを気にせず書きます。
当たり前のようにいる家族
当たり前のようにいる親友
当たり前のようにいる大好きな人
当たり前のようにいるペット
当たり前のようにいる◯◯
みんなも当てはまるであろう◯◯。
人それぞれあるから、そこに何が当てはまるかは分からないけど、そんな◯◯が当たり前のように目の前にある幸せ。
当たり前過ぎて、その幸せに気付けない人もたくさんいる気がする。
気付けないのか、気付こうとしないのか…それは分からないけど。
ただね、この「当たり前」って、いつかなくなるし、誰もが失うものなんですよ。
だって形あるもの、命あるものは永遠ではないから。
突然、病気とは無縁だと思ってた家族が病気になるかもしれない。
突然友人が最悪な事故に巻き込まれるかもしれない。
突然大好きな人が目の前からいなくなるかもしれない。
想像すればいくらでも出るわけで、
想像できるからこそ、その可能性はあるんだよ。
きっかけなんて、大小あるのかもしれないけど、
どっか、油断してないですか?
どっか、「いなくならないから大丈夫」なんて、なんの根拠もない安心を抱いて、自分に言い聞かせてないですか?
なんなら、そんなん考えた事もないよって人も中にはもしかしたらいるんじゃない?
だから、今一度振り返ってほしいな。
目の前に「当たり前の◯◯」があるから、「慣れ」って魔物がそれを狂わすんだよね。それがなくなる事が想像できない気持ちも分かるんだよね。
だって、現に今はそれは、目の前にあるわけだからね。その気持ち分からんでもないよ。
これに気付けるか気付けないかで、だいぶ違うと思うんだよね。
気付ける人は、もっともっとこれから、思いやりのある優しい人間になれると思うんだ。
なぜなら、当たり前の◯◯を失う痛みを知ってるからね。
俺には、血の繋がった家族なんて、とっくにいない。
当時、おかんが病気でいなくなった事で、
「天涯孤独になった」「俺に今なんかあったらどうしよう…」「誰が俺見つけんの?」
なんて、すげぇ~不安や恐怖が押し寄せ、壊れそうになった。
「当たり前」
同時に、ちゃんとそれを理解した瞬間でもある。
俺もそうだった。
いつかは寿命とかで母親もいなくなるしとか、頭では分かってたつもりだった。でも「今じゃない」「まだまだ先だろう。こんだけ俺にぶちギレるぐらい元気だし。笑」なんて甘く考えてた。
それが突然、おかんが病気になり、余命宣告され、月日が経つにつれて、その余命が変わっていき、最終的には最初の余命宣告が嘘のようなスピードで、空にいっちまった。
でも、宣告されただけマシだったって思える。
ただ、辛いもんは辛かったよ。
俺こそ、それまでその目の前にある「幸せ=当たり前」に気付けなかった本人だ。
こんな大口叩いといてなんだよって感じだけど、それが当時の俺だった。後悔しまくったよ。
これが現実だった。
今だって、肝心な時にまたそれを繰り返してまだまだ後悔もする。
今でこそ、普通って言葉が正しいかは分からないけど、普通になったけど、
今でも何かきっかけがあれば、正直ふとあの時みたいに恐怖に飲まれそうになる時もある。
でも、血は繋がってなくとも、家族みたいな大切な人達が、俺を支え囲んでくれて、俺は今生きている。
例えそれが俺の思い込みでも構わないと思ってる。自己満足だっていい。
当たり前のようにいる、俺の周りの人達に、日々救われ、感謝してるよ。
そんな「当たり前」を教えてくれたのが、おかんだった。
「当たり前」の反対言葉知ってますか?
「当たり前」の反対言葉は
「ありがとう」なんだってさ。
なんで?って思うよね。
それを説明します。
「ありがとう」は漢字で書くと「有難う」
「有難(ありがた)し」という意味。
これは、あることがむずかしい、まれであるとか、めったにない事にめぐりあう。
早い話、奇跡って事なんだよね。
んじゃ、その奇跡の反対は?
そう、奇跡の反対は、「当然」とか「当たり前」
深いね。
当たり前な◯◯。
◯◯で当たり前。
いろんなパターンあるけど、大事にしてほしいなと。
この文章で、読んでる人に響くか響かないかなんてどうでもいい。
感想をくれなんて微塵も思ってない。
ただ、何かのきっかけになればそれでいい。
ただそれだけだ。
好きな事書いていい場所だからな。
俺より悲しい環境の人なんて、たくさんいる。でも、その人達は、俺以上に「当たり前」を知っている事でしょう。誰よりも幸せに気付いてるだろう。
普通になり、おかんがいなくなったあの日から、立ち直り始めた俺は、考え方が変わった。本当の意味で1人になる恐怖を味わったから、誰かに同じ思いわさせたくないなって。
綺麗事と片付けられてもいいし、どうでもいい。
誰かが1人になりそうになったら、
「最悪俺いるから大丈夫よ。行ってこい。」って言える人間になろうと。
最後の最後まで目の前で弱ってるその人の味方でいてあげようと。自分が仮に痛めつけられる何かがあっても、変わらず味方でいようってね。
だから、馬鹿みたいに手を差し伸べ続けた。
手を伸ばし、救えた物もあれば、もちろんそうじゃないものもある。
なんなら自ら手を離す人もいる。
そんな色んな人がいる中で、自分自身が辛い思いをすることの方が多かった気もする。きっとこの先もそうだろうな。
でも、治らない。「当たり前」の意味を知ってしまった、この性格は治らないんだわ。
教えてもらった事が、今の俺を作ったんだから、それを大事に生きていこう。
今みんなの目の前にある当たり前に感謝しよう。全力でぶつかろう。気付いてあげよう。
決して何か行動を起こせって事じゃない。
その当たり前が、幸せである事を再確認しよう。
再確認した上で、動く動かないなんて、あとは本人次第だろ?
あと、毎日それを考えろなんて言わない。たまにさ、ふと思い出してほしいなって。
俺の周りにいる人達に感謝と同時に、俺もずっと手を差し伸べていくよ。
そして、相手の幸せを、自分の事のように喜べる人間にね。
長々書いてしまったけど、こーゆー大事な事を教えてくれたおかんや大切な人達に、心の底から感謝だよ。
改めて、おかんありがとうな。
みんなありがとう。
そんなおかんに最後に言いたい。
おかんへ
俺は元気にしてるよ。なんかまぁ色々あるけども、今日もこうやって元気に書いてますよ。
なので心配しないでくださいな。
ってかさ…もうすでに涙目な俺がいるんでんだけどさ…
本当産んでくれてありがと。育ててくれてありがとう。自分で言うのもなんだけど、あなたが腹痛めて産んだ馬鹿息子は、不器用ながら、人の痛みの分かる、優しい男になってると思うよ。
優しすぎるのがたまに傷だわって自分でも思うレベルだわ。笑
「優しすぎなんだよ‼︎あんたはいつも‼︎」なんて声が、子供の頃みたいに今にも聞こえてきそうだけど、まぁ細かい事はいいじゃねーか。
何かに巻き込まれるなり、傷付くのは自分かもだけど、俺が勝手にしてる事だ。治るならとっくに治っとるわ‼︎笑
とりあえず今日は、思い出のドーナツ自分で買って食うけど、いつかそっちに俺が行った時、昔みたいに変わらず、玄関のあの引き出しの上に、このドーナツ置いといてくれよ。
それまで、大好きなマッサージと温泉にでも浸かって待ってなさいよ‼︎笑
ほいじゃまたな‼︎おかんっ‼︎
愛してるよ。