2,陰と陽

 人が天地を発見して、人そのものも天と地に生かされていることに気づいた。人は天地がなければ存在できない。同時に人が天や地を認識しなければそれらも存在できないのは、先に述べた通りである。

 天は広がりはわかるが目には見えず手に取ることのできない存在である。しかし、天は確実に在る。

 天は清気に満ちる。清気とは空気のことで在る。人は清気を取り入れ濁気を出さなくては生きてはいけない。清気はまた頬を撫でる。髪をなびかせる。寒気を染み付かせる。天の太陽は暖気を与える。水を降らせる。時には天も荒ぶる。暴風を吹かせ、雷を起こす。人の命を奪うこともある天だが、その天がなければ人は生きて行くことができない。

 ある意味、人は天の一部である。天の意志に従ってでしか生きて行くことはできないし、天の意志は人の生き様に大きな影響を及ぼす。

 地は確実に触れることのできる広がりである。人は地に立つ。駆ける。草木が生える。水が流れ染み込み溜まる。

 地は天と密接に関係する。雨として水を得る。光と寒暖を与えられる。地は天によっても生かされているのである。人が天の認識をして初めて天が「在る」のと同様に、天もまた地があるからこそ「在る」。地もまた天があるこそ「在る」ことができるのである。

 天と人と地は、その存在を認め合っているからこそ「在る」。いずれかが認識しなければ存在がなくなる。

 そのような存在関係の中で、人は在ることに気がついた。物事は全て二つの要素で説明できると言うことである。

 陰陽論の発生である。

 天は陽である。地は陰である。人は天地から見ると陽でも陰でもない中庸であるが、人そのものを見た時、機能的にも部位的にも陽と陰に分化することができる。

 ところで、天と地と人との間で共通して流れるものは何だろうか。気と水である。気と水は、天に持ちにも人にも流れている。

 人は天からも地からも気を得て生きている。天からは清気として、地からは飲食物に宿る気(水穀の気という)としてである。

 水は天にも地にも存在する。雨として、霧として、湧き水として、川として、湖として。 気と水を陰陽に分類すると、気は陽であり、水は陰である。

 陽はポジティブなものである。活動的で能動的で熱を持つ。陰はネガティブなものである。静止的で受動的で寒である。しかし、あるものを仮に陽としても、それも陰陽に分化される。陽の中に陰の部分と陽の部分があるのである。これは陰にもいえる。陰の中にも陰の部分と陽の部分がある。この分化は永遠に繰り返される。しかもその陰陽の比率は一様ではない。これは逆にいうと、陰と陽の比率や分布で、すべてのものの性質が説明できるである。

 例えば水だけで考えてみよう。水は陰に属する性質をもつ。この水に熱を与える。すると性質が寒であったものが熱の性質を帯びてくる。さらに熱を帯びると沸騰し、次に蒸散し、やがては本来の性質の寒に戻る。

 水は陰の性質だが、気は陽の性質である。陽の性質は昇りやすい。だから、天地では天に満ちている。陽の性質を持っているので太陽で容易に温かくなる。気は揺れ動きやすいので、天地が何かの要素で荒ぶると、嵐になって吹きすさんだりする。

 このような陰陽は、人にも当てはまる。ある人は陽の性質が強く、ある人は陰の性質が強い。しかし、仮に陽の性質の強い人でも、冷たいものを飲み過ぎたりすると陰の要素が強くなってしまう。仮に陰の性質の強い人でも、熱いオーブンの前に長く座っていたりして陽の要素が強くなることもある。あるいはまた、陽の性質の人が憂鬱な事件に出会ったりすることにより陰の要素が強くなることもあるし、陰の性質の人がうれしい出来事に出会って陽の要素が強くなることもある。

 

げんき本舗治療院

院長・羽山弘一