紹介2人目(大学院を辞めた素直な感情)/消せない思考 | しゃけ(元捨毛法師)の大学日記

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社会人一年目。

元marchのどこか
2021年3月卒業しました。

前回と同じノリで紹介します。

 

これは自分が大学院考えた時に読みました。

 

自分と重ねて色々書いてみたいと思います。

 

ダサいことも書きますがご容赦ください。

 

 

 

この人の思想は僕にかなり近いと思います。(少なくとも1年前の自分)

 

いくつか抜粋します。(太字が抜粋)

 

自分の中で勝手に「大学に入って遊び惚ける人」よりも自分は優れている、みたいな格付けをしていたのかもしれません。  

 

これはマジである。自分も大学で勉強することは当たり前だと思いますし、それは今でも思っている。

 

ただ、大学、特に今の日本において学問だけを求める必要はないわけです。

 

以前書いたように、どんなことでもそれなり以上に熱中することの素晴らしさはどの分野でも変わりません。

 

むしろいわゆる最初僕が否定的だったバイトばっかりやる人間の方が、社会性が身について社会人として生きる時には役立つ家事もしれません。もちろんそこで経験した苦労や達成感などは得られますし。

 

結局僕にとって物理学は受験勉強のストレスを発散するための捌け口に過ぎなかったんじゃないか、と思ったのです。それはおそらく本当にそうなんだと思います。

 

これは僕にとっては就活などのストレスを発散するための捌け口に経営学を使っていたといえます。

ただ、この人と同じように経営学に圧倒的な情熱はもっていなかったのかもしれません。もしそうなら、なにがあっても今年はとりあえず受験していたと思うので。

しかし、この人と全く同じような熱量しかもっていなかったのか?と言われると、そうではないと自分では思っています。

 

院に進学する人間(真剣に受験して落ちた人含む)>>>>僕>>このブログの筆者

だと思っています。

それは自分でもわかりません。

 

僕が普段の生活で最も充実している瞬間は、何かの修練度を上げていくときです。お絵描きなら、はじめは下手くそな絵が、練習をして如実にうまくなっていることがわかるフェーズです。しかし、ある程度うまくなると、だんだん成長率に陰りが出てきます。そういうときは、別の未知のことをまた開拓します。

 

これは割と真理な気がする。

特に自分は当てはまります。

テストだってそうで、40点から80点まで上げるのはそんな難しくないんですよ。

ただ100に持ってくのに、40→80点までの努力以上の労力が必要になると思うんです。

 

そこの差は非常に大きいと思います。

これをやり切れる人間は仕事でもなんでもうまくいくんじゃないでしょうか。

 

だから、この人の書いたように、成長に陰りが見えると辞めたくなるのが本能だと思います。

それは悪いというよりむしろ当然に近い。

 

逆にこれに当てはまらないあなたは素晴らしいと僕は思います。尊敬します。

皆さんはどうですか?

 

正直なところ、人類の役に立ちたいと思ったことは人生で、ただの一度もありません。

 

うーんこれはどうでしょうか。

 

正直大学の後半から、この思考は変わったように思います。

 

自分は聖人君子ではないので他者のためだけにやることは好まないかもしれません。

 

ただ、自分の願いを解決する際に、「こういうことで困ってる人がいるな」と思ったら、同時にそれもやってしまいたい。

 

あとは、純粋に自分関係なくても、世界に変わって欲しいところがいくつかあります。それに関しては、自分は努力を惜しまないと思っています。

 

 しかし、世の中には一つの恐ろしい理論があります。
「ダメなやつは何をやってもダメ」理論です。

 この理論で行くと、研究ができない自分は就職しても結局技術を身に着けたり、人に誇れるような仕事はできない、ということになります。

特に、「研究」という抽象度が厄介で、研究ってすべての知的労働の根幹という感じがするので、「研究ができないやつは、どんな知的労働をしたってダメ」というのは激しい説得力を持って襲い掛かってきます。
 でも、だから小さい会社に行くのはやめといて、無理して院に行くというのは、「自分は何をやってもダメなので、頑張って修士号という肩書をもらって実力もないのに大企業に入ります」と言っているみたいでダサすぎないですか?

 あるいは、研究ができないからって就職するの、結局大学2年の時に物理の勉強をしてないから工学部にいったのとおんなじじゃん。どうせまたすぐつらいつらいって言って逃げ出すんじゃないの? という問いが、自然に発生します。どうなんでしょうか。わかりません。

 

これが最も、刺さった箇所です。

長いですが、できたら読んでください

 

この話はずっと自分の頭から離れない。

 

例えば、浪人する、院進すると考えたあと、それを辞めるとします。

 

冷静に考えたら、その選択肢が正しくなかったとしても、少なからず自分の意志と達成する力に問題があると考えてしまいます。

 

研究ではなく、自分の信念というもっと大きなレベルでの話で考えると、「自分の目指したことを達成できない人間は、社会に出て働いても成功しない」ということを考えていました。

 

例えば浪人の時、早稲田でやることがあったのではなく、早稲田合格という目標を達成するのが目的でした。

 

ただ目標を達成するために、リスク背負って1年をかけるのか?と考えた結果が今です。

 

結局自分が1年間モチベーションが続かないんだろうということから、現役を選びました。

 

だから同時に、このブログの筆者のように研究ができないから就職するのと同じ思考に陥ります。

「あのとき目標達成を諦めたし、次にそういうことがあっても同じことするんでしょ?」と。

 

一つこの議論に介入するとしたら、そもそも浪人や院進という決断自体が適切でないケース。

もしそうなら、多少の救い?になるかもしれないけど、それで言い訳はしたくない。

 

僕は、適材適所という言葉の方を信じることにします。

 

このように筆者は締めていますが、僕はむしろ、「今の自分の選択の方が正しかった」と信じています。

 

また、そう思えるような生活を送りたいと思っています。

 

抜粋含め、2600字を超える冗長な文章になってしまいました。

 

読み流してくれたあなた、ちゃんと読んでくれた変わり者のあなた、締めだけみにきたあなた。

読んでくれて感謝しています。

 

読んでくれる人がいるから、僕はこのブログを続けていられます。

 

(注、本ブログで書いた僕の考えは、現在の思考と過去そう思っていた思考が混同している可能性があります。できる限り過去にのみ持っていた思考は明記しているとは思いますが、過去形にするだけだったりわかりづらい表記もあると思います。

そこはご容赦ください。)