順徳天皇の第一皇子である懐成親王が、誕生の翌日立太子し
四歳の時天皇の譲りを受けて即位しました(仲恭天皇)。
幼少のため伯父の左大臣九条道家が摂政となりました。
順徳天皇の攘夷は、後鳥羽上皇の討幕計画に積極的に参加
するためであり、「承久の乱」が起きると仲恭天皇は摂政・
道家の九条邸(母親の実家)に難を逃れていました。
しかし、倒幕の挙兵は失敗、後鳥羽、土御門、順徳上皇
はそれぞれ隠岐、土佐、佐渡に配流されました。
仲恭天皇も幕府によって廃位させられ、後高倉院の皇子・
茂仁(ゆたひと)親王に譲位しました(後堀河天皇)。その
後は九条邸に住み、一二三四年(文暦元)、十七歳で崩御
しました。在位僅か七十余日で即位式も大嘗祭も行われません
でした。そのため当時は正式な天皇とはみなされず「半帝」と
呼ばれていました。しかし、明治四年になって、明治天皇が
追諡(ついし)して仲恭天皇となりました。