後鳥羽天皇の第一皇子である為仁(ためひと)親王が、天皇の
譲位により四歳で即位しました(土御門天皇)。
後鳥羽天皇には三人の皇子がいましたが、そのうちの誰を皇太子
にするかを卜筮(うらない)で決めたのでした。このような重事が
軽率に行われたことには、為仁親王の母・在子の養父である
源通親の意向がありました。
土御門天皇は人柄は温和でしたが、鎌倉幕府と緊張関係にあった
後鳥羽上皇はこの性格を物足らなく思い、天皇に譲位を迫り、弟
の才気ある守成親王を即位させました(順徳天皇)。
土御門上皇は、承久の乱に当たって後鳥羽上皇をいさめ、その
ため乱後の処分はありませんでしたが、孝心の篤い土御門上皇
は、自分だけ京に留まるわけにはいかないと、自ら配流を申し
出ました。たっての願いとあって土佐に配流、後阿波に移りました。
幕府は阿波の守護に御所を造営させるなどして厚遇しました。
約十年後この地で崩じました。