後朱雀天皇の第二皇子である尊仁(たかひと)親王は、母が
三条天皇の皇女禎子内親王であり、宇多天皇以来百七十年
ぶりに藤原氏を外戚としない天皇の誕生となりました。
尊仁親王は一〇四五年(寛徳二)、兄の後冷泉天皇の践祚(せ
んそ)に当たって皇太弟となったが、その後、二十四年という
長い東宮生活を送りました。これは生母が藤原氏の出でないため
関白・藤原頼道に疎んじられたせいで、頼道は後冷泉天皇に
皇子(自分の孫)が授かるのを待っていたのです。
しかし、ついに皇子の誕生はなく、尊仁親王が即位しました(後
三条天皇)。
御三条天皇は幼少のころから聡明であったが、皇太子として長い
年月を送る間に、天皇がとるべき独自の道を信念として身につけ
ました。後三条天皇は身分が低いものの博学であった大江匡房
(まさふさ)ほか下級役人なども登用し、積極的に親政をおこない
ました。後三条天皇の高潔な人柄と深い学識は、強い政治力と
相まって人々を心服させました。一〇七二年(延久四)十二月
後三条天皇は在位四年半で茂子との間に産まれた皇太子貞仁
(さだひと)親王に皇位を譲り(白河天皇)、基子との間の実仁(さ
ねひと)親王を皇太弟にあてました。早く譲位したのは、摂関政治
との結び付きを断ち、皇室中心の政治を目指していたためです。