村上天皇の第二皇子の憲平(のりひら)親王が、第一皇子の
広平(ひろひら)親王を押しのけて、生後間もなく皇太子に立ち
ました。その背後には藤原実頼(さねより)・師輔(もろすけ)兄弟
の力が働いていました。その憲平親王が十八歳で即位しました
(冷泉天皇)。冷泉天皇は容姿は美しいが奇行が目立ち病弱で
ありました。そのため聡明な第四皇子為平(ためひら)親王の
待望論がありましたが、為平親王の甥・源高明(たかあきら)が
安和(あんな)の変で失脚し、皇太子は第五皇子の守平(もりひら)
親王(次の円融天皇)に決まりました。これは権力が源氏に傾く
ことを恐れた藤原氏の策謀でありました。
これにより藤原氏の権力は確立し、摂関政治が完成を迎えました。
左大臣高明は安和の変で太宰権帥に左遷され、左大臣には
右大臣藤原師尹(もろただ)が就任しました。
変の五ケ月後、冷泉天皇は三年という短期で退位しました。