第五十九代宇多(うだ)天皇! | 皇后八幡神社のブログ

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広島県三原市須波西にある「皇后八幡神社(こうごうはちまんじんじゃ)」のブログです。

光孝天皇には多くの皇子がいましたが、ほとんどが源氏姓を

 

賜り臣籍に降下していました。第七皇子であった源定省(さだ

 

み)もその一人でありましたが、天皇によくつかえ、性格も

 

思いやり深いことであったことから、八八七年(仁和三)八月

 

光孝天皇は定省の源氏姓を削って親王にし、皇太子に立て、

 

崩御しました。

 

実力者の藤原基経は、この親王が皇太子に立ったことを、

 

喜ばなかったのです。それは親王が自分の意志を持ち、

 

考えがしっかりしていたからです。

 

同年十一月、皇太子の定省親王が即位しました(宇多天皇)。

 

八九一年(寛平三)一月、基経が亡くなると、宇多天皇は

 

関白を置かず、律令国家再編のため親政を行い、菅原道真

 

を抜擢しました。この時天皇は二十五歳、菅原道真四十七歳

 

でした。道真は、官僚としても文人としても活躍し、天皇か

 

らの信任も厚かった。八八九年(寛平元)天皇は皇子の

 

敦仁(敦仁)を皇太子に立てました(次の醍醐天皇)

 

天皇は諸国に気を配り、防衛にも力を入れました。この親政

 

は「寛平の治」と呼ばれています。天皇は学問にも熱心で

 

、この時代様々な文化が栄えました。八九七年(寛平九)

 

天皇は皇太子に譲位して、自ら上皇となりました。天皇は

 

譲位にあたり「寛平御遺誡(ごゆいかい)」を書き贈りまし

 

た。これは自身の失敗も隠すことなく、同じ過ちを犯さな

 

いようとの配慮であり、また賞罰を公平にし、喜怒をあらわ

 

さず、事に当たっては先例を考えるよう訓じています。

 

これが古来の天皇の金科玉条となりました。