光孝天皇には多くの皇子がいましたが、ほとんどが源氏姓を
賜り臣籍に降下していました。第七皇子であった源定省(さだ
み)もその一人でありましたが、天皇によくつかえ、性格も
思いやり深いことであったことから、八八七年(仁和三)八月
光孝天皇は定省の源氏姓を削って親王にし、皇太子に立て、
崩御しました。
実力者の藤原基経は、この親王が皇太子に立ったことを、
喜ばなかったのです。それは親王が自分の意志を持ち、
考えがしっかりしていたからです。
同年十一月、皇太子の定省親王が即位しました(宇多天皇)。
八九一年(寛平三)一月、基経が亡くなると、宇多天皇は
関白を置かず、律令国家再編のため親政を行い、菅原道真
を抜擢しました。この時天皇は二十五歳、菅原道真四十七歳
でした。道真は、官僚としても文人としても活躍し、天皇か
らの信任も厚かった。八八九年(寛平元)天皇は皇子の
敦仁(敦仁)を皇太子に立てました(次の醍醐天皇)
天皇は諸国に気を配り、防衛にも力を入れました。この親政
は「寛平の治」と呼ばれています。天皇は学問にも熱心で
、この時代様々な文化が栄えました。八九七年(寛平九)
天皇は皇太子に譲位して、自ら上皇となりました。天皇は
譲位にあたり「寛平御遺誡(ごゆいかい)」を書き贈りまし
た。これは自身の失敗も隠すことなく、同じ過ちを犯さな
いようとの配慮であり、また賞罰を公平にし、喜怒をあらわ
さず、事に当たっては先例を考えるよう訓じています。
これが古来の天皇の金科玉条となりました。