
筆に逆らわない「自然」の境地:王鐸『擬山園帖』を臨書して
こんばんは!今日は、中国書道史に輝く巨匠、**王鐸(おうたく)**の『擬山園帖(ぎさんえんじょう)』を臨書しました。彼の書と向き合うたび、いつも深く感じ入ることがあります。それは、その筆致が、とにかく「自然」であること。
まるで筆が自らの意思を持っているかのように、何の抵抗もなく紙の上を滑っていく。その様子を見ていると、彼らにとって書とは、単なる作品や芸術というよりは、まさに「生活」そのものだったのではないかと感じさせられます。
現代に生きる私たちにとって、それに近い感覚と言えば、もしかしたら「スマートフォン」のようなものかもしれません。私たち大人は、若い頃にはスマートフォンがなかったので、その操作に戸惑うこともありますが、若い世代の人たちは、幼い頃から常に身近にスマートフォンがあり、ほとんどの人が迷うことなく使いこなしています。言わば、皆がそれぞれの「達人」ですよね。
昔の書の名手たちも、きっとそれと同じように、書が生活に溶け込み、筆が体の一部のように自然に動いていたのでしょう。私も、毎日少しずつでも書に触れ続けることで、いつかその「自然」な境地に辿り着きたいと願っています。
王鐸(1592-1652):激動の時代を生きた書壇の巨星
王鐸(おうたく、1592年-1652年)は、明末清初の激動期に活躍した中国の書家です。彼は官僚としても出世し、礼部尚書(現在の文部大臣のような役職)まで昇り詰めました。学問にも秀でており、特に歴史に造詣が深く、詩や画の才能も持ち合わせていました。
彼の書は、既存の概念にとらわれない大胆で力強い書風が特徴です。
* 連綿(れんめん)の巧みさ: 複数の文字を連ねて一気に書き上げる「連綿」の技法を極め、数十文字にも及ぶ連綿草書を長条幅(縦長の紙)に書き上げました。これは王鐸独自の作風として高く評価されています。
* 墨法の変化: 墨の濃淡や潤渇(潤っている部分と乾いている部分)を巧みに使い分け、書に奥行きと躍動感を与えています。
* 古典の継承と革新: 王羲之や王献之といった晋の時代の書を徹底的に学び、顔真卿(がんしんけい)や米芾(べいふつ)など唐宋の書からも影響を受けました。しかし、単なる模倣に終わらず、それらを昇華させて自己の個性的な書風を確立した点が、彼の偉大さとして評価されています。
* 各体(楷書、行書、草書、隷書)への精通: 行草書が特に有名ですが、楷書や隷書においても優れた作品を残しており、その筆力は多岐にわたります。
王鐸は、生涯にわたり「一日帖を臨し、一日、清索に応ず」という、一日おきに古典の臨書と創作を繰り返す鍛錬を続けたと伝えられています。この徹底した古典学習と、そこから生まれる自由な発想が、彼の唯一無二の書を生み出しました。日本の書壇においても、故・村上三島(むらかみさんとう)先生によって王鐸の書風が一気に広まり、現代の書道界にも大きな影響を与え続けています。
『擬山園帖』:王鐸円熟期の代表作
『擬山園帖』(ぎさんえんじょう)は、王鐸が57歳の時に、友人である米万鍾(べいまんしょう)のために書いた書帖(書簡や詩などを集めたもの)です。彼の円熟期の代表作として知られています。
この帖には、王鐸自身の詩が収められており、詩の内容は友人との交流や、当時の心境、日常の情景などが率直に綴られています。書の特徴としては、
* 雄渾な筆致: 力強く、大胆な筆遣いが随所に見られます。
* 連綿の美: 文字が次々と繋がり、全体として一つの大きな流れを生み出しています。
* 墨の豊かな表情: 墨が潤沢に含まれていたり、かすれたりする変化が豊かで、見る者に深い情 感を伝えます。
* 人間味あふれる表現: 勢いのある書でありながらも、友人への親愛の情や、人生への思索とい った人間的な感情が筆致に滲み出ており、見る者の心を打ちます。
『擬山園帖』は、王鐸の書技の高さはもちろんのこと、彼自身の豊かな内面世界が感じられる作品としても、多くの書道愛好家や研究者に愛されています。書として鑑賞するだけでなく、詩の内容や、それが書かれた背景に思いを馳せることで、王鐸という人物とその時代の息吹を感じ取ることができるでしょう。
「生活」としての書を目指して
王鐸の書を臨書していると、彼が筆を執る行為が、呼吸をするのと同じくらい自然なことだったのだろうと感じずにはいられません。それは、日々の積み重ねがあってこそ到達できる境地であり、まさに私たちが目指すべき「書のある生活」の理想像なのかもしれません。
私も、スマートフォンを毎日自然に使うように、筆を持つことが当たり前になるまで、これからも書に親しみ、その奥深さを探求していきたいと思っています。
皆さんは、書を「生活」の一部としてどのように捉えていますか? ぜひコメントで教えてくださいね。