大学に入学してまもなく、授業が封鎖された。その数カ月間、哲学や文学も含めて、いろいろなジャンルの本を終日読み耽った。それが自分の「青春」といえば「青春」だった。石岡学著『みんなの<青春>』、副題は「思い出語りの50年史」だ。雑誌・新聞・テレビ・映画・コミック・流行歌などで語られたこの言葉を歴史的に分析、「青春」とは何であったのかを問う。▼「青春」という言葉は、漱石や鴎外の文学作品などで好んで取り上げられた。長い学生生活を享受しえた男性エリートの、挫折や苦悩を経験し成長する過程を意味した。それが「あるべき青春のあり方」となった。だが戦後の高度経済成長で、就学率が上昇した70年以降、「青春」は普通の若者も経験するようになった。これにより若者イメージ消費が本格化した。▼「恋愛」や「性」も、「青春」には欠かせない。戦後、民主主義教育の一環として共学を実施、そのせいか過度に純潔さが求められた。だがバブル前後にもなると、それとは全く逆行する現象が生じた。「青春」を送ることが出来るか否かは、個人の要因に帰せられたからだ。クリスマスや誕生日をどう過ごすか、メディアも含めた消費主義がそれを煽り増幅させた。▼一方、「第二の青春」「生涯青春」という言葉がある。サムエル・ウルマンの詩『青春』には、「青春は心のあり様」とある。近代社会は、現状に満足せず常に進歩・発展の途上であることを善とする。従って、情熱、チャレンジ、ワクワクする感情といった要素、「若さ」というものに高い価値を置く。ある意味で、人は「青春」から逃れられないのでないかと、著者はいう。