それからというもの宇野さんは気になる人物の一人だったのですが、そんな宇野さんについて書かれた本をブックオフで見つけ(しかも105円!!)たので、早速読んでみました。
『渋谷で働く社長の告白』を読んだ時は、「いい人だなぁ」程度だったのですが、この本を読んで尊敬する人になりました。男として魅力を感じますね。
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目次
プロローグ
第1章 ネットテレビ「GyaO」への挑戦
第2章 高くて遅い日本のインターネットを変える -GyaOへの道Ⅰ
第3章 コンテンツへの傾斜 -GyaOへの道Ⅱ
第4章 大阪有線からUSENへの革新
第5章 イケメン社長のアンバランス経営
沿革
エピローグ
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●宇野社長
1963年8月 大阪府に生まれる
1988年4月 明治学院大学法学部卒業後、リクルートコスモスに入社
1989年6月 インテリジェンスを設立 社長に就任
1998年7月 大阪有線放送社の2代目の社長に就任
2000年3月 ケーブル違法配線状態の正常化が完了
(親父の代に違法だった配線問題を、解決!!)
4月 社名を「有線ブロードネットワークス」に変更
2001年3月 光ファイバーサービスを開始
4月 ナスダック・ジャパンに上場
11月 楽天と合弁で「ショウタイム」を設立
(今のGyaOの前身みたいなもの)
2004年10月 エイベックス・グループに出資20%を超える大株主となる
12月 ギャガ・コミュニケーションズに約100億円を出資して連結子会社化
2005年3月 社名を「USEN」に変更
4月 「GyaO」を開始
2006年3月 「GyaO」の登録数が800万人を突破
3月 個人で、フジテレビジョンからライブドア株式の譲渡を受ける
早くから経営者になることを志していた宇野氏は、いったん会社勤めをするものの、すぐに仲間たちと、
人材総合コンサルタント会社を起こす。その会社の上場寸前に、父親が病に倒れ、父親が経営していた大阪有線放送社を引き継ぐ。
当時の大阪有線は、役所への届け出などが不十分なまま放送用ケーブルを全国に張りめぐらせた「違法配線」問題を抱えていたが、宇野氏は社長就任後すぐに、正式な手続きや利用料を支払う正常化に着手。これを1年あまりで成し遂げ、その後は当時としては格安の利用料で光ファイバー事業に乗り出し、数年かけ事業を軌道に乗せる。
そして2005年の春にネットとテレビを融合させた「GyaO」を開局。
●宇野康秀の魅力
・「宇野さんにインボルブ(巻き込む)されましたよ。近所の子供が面白いことを見つけたから一緒にやろうよ、というような純粋な漢字で引き込んでいくんですよ」 (GyaO事業本部・編成局長 菊池氏)
・光ファイバーサービスを始めるにあたり、機器メーカーを訪ねてまわって、「誰もFTTHなんてやろうとは思わないし、やる必要もない。おまえはクレイジーだ」を言われたの対して、同行者に
「ここまで言われると、絶対にやりたくなるね」 (宇野氏)
・光ファイバーを始めたものの、ヤフーBBのADSLが低価格を打ち出し、苦戦していたとき
「少なくともやめるとか撤退するということは一切考えなかったですね。いったんビジネスとして成り立つエリアでの提供に絞るしかないということです」 (宇野氏)
・「どんな事業でも会社を構造改革していける自信が私にはあるんです」
(GAGAの経営者になって)
・「宇野さんはまったく遅刻をしなかったな。9時始業といっても普通は9時5分になることもありますよね。ところが宇野さんはいつも必ず9時までにはいた。風邪をひいても仕事をやめなかった。そんな頑固親父みたいな面がある」 (インテリジェンスを一緒に創業した鎌田氏)
・「個人で出資したりする時は、実は、リターンを大きく求めて出資しているわけではないんですね。どちらかというと、そういう人が頑張る姿に対して素直に応援してあげたいと思って、・・・ そのときはリターンはあまり気にしないので。ただ単純に情熱に打たれて「わかった、じゃあ、出すよ」というのがほとんど」
(ベンチャー企業に出資することについて、宇野氏)
・「一番ぶつかったのは僕だったかもしれない。お互いの信頼関係の中でのことだが、たいてい彼の忍耐強さに負ける。朝方まで説得されたこともある。あの忍耐強さは、学ぶべきポイントかもしれないな」
(インテリジェンスを一緒に創業した鎌田氏)
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