尊厳と健康(QOL)は分けて考える | 本好き精神科医の死生学日記 ~ 言葉の力と生きる意味

本好き精神科医の死生学日記 ~ 言葉の力と生きる意味

「こんな苦しみに耐え、なぜ生きるのか…」必死で生きる人の悲しい眼と向き合うためには、何をどう学べばいいんだろう。言葉にできない悩みに寄りそうためにも、哲学、文学、死生学、仏教、心理学などを学び、自分自身の死生観を育んでいきます。

以前、健康概念の見直しについての記事を書いたこともありましたが、

そういう内容の講演に参加し、感動したので、その備忘録です。

(うまくまとまっていない表現もあり、乱文です)

 

医療の進歩は目覚ましいですが、

それでも、治らない病気はたくさんあります。

精神科でもそうだし、体の病気でもそうだし。

そういう「治らない病気へのアプローチ」の仕方に、一石を投じるお話し。

 

医療崩壊の原因は、QOL(Quolity of Life)や、緩和ケアの定義が間違っているからだ。

そんな断言からご講演が始まりました。

 

現代は、「所有概念」で生きているといいます。

何かがあること、持っていることが、幸せなんだという考え方。

物質的な所有もそうだし、能力や、友達や、何かが「あること」が幸せ。

裏を返せば、そういうものが「無い」こと、「失うこと」は、不幸でかわいそうなんだと。

 

もちろん、喪失は悲しいことではありますが、

それが行き過ぎると、

病気やケガなどで、能力や若さ、理性や判断力など、様々なものを「失った」人は、

まるで「生きる意味」までも失い、「生きる価値」も無いかのように、感じがちです。

 

その理由の一つが、そういった「喪失 loss」にどう対応すればいいのか、ケアの仕方を学んでこなかったからではないか。

「喪失=死」というイメージが強すぎると、極端になりがちです。

 

そのために、死なないけど、失っている状態にどう対処すればよいのかがわからないのではないか。

たとえば、脳梗塞でマヒがあって、身体機能が失われるとか、

認知症で、色々な判断力や認識する力、記憶力が失われるとか。

全てを失ったわけではないのに、「一部の機能が失われた=絶望」と、極端になりがちではないか。

 

ただ、これは誰もが陥りがちな発想です。

というのも、他人の死や老い、病は受け入れられても、自分の老病死は受け入れられない。

人はいつか必ず死ぬ、と頭では分かっていても、自分が死ぬとは思えない。

まさか自分が癌になるなんて、老いて介護を受ける日が来るなんて、考えたくない。

これを、「主観的自己認識の矛盾」というのだそうです。

主観的に、自分で自分のことを考えるときに、矛盾が生じる。

 

自分はガンにはならない、という極端な楽観か、

なったらもうダメだ、という極端な悲観か。

白黒思考とか、0か100思考とも言われます。

これは、冷静に考えられないために、発想が極端になってしまうのだと思います。

 

そういう自覚が、医療においても大切です。

そういう人間観がないと、どんな問題が生じるのかというと、

健康であることが普通で、治らない病気になったら、健康じゃなくなったら、それは普通じゃない。

「どうせ治らないなら、治療しても無駄」と考えてしまう。

 

治るなら治療は意味があるけど、治らないなら治療は無意味。

それは極端すぎますよね。

 

そもそも、私たちは全員、不治の病にかかっています。

最後は必ず、100%死なねばなりません。

じゃあ、必ず死ぬなら、生きる意味はないのか?

 

そんなはずはありません。

 

だからこそ、健康かどうか、上がり下がりすることと、

私たちの生きる意味、尊厳は、分けて考えることが大切です。

 

「QOLが下がり、不便な生活になってまで生きていたくない」

というのを、

「尊厳が低下してまで、生きていたくない」

という言い方をしますが、これは、言葉の使い方が間違っていて、

そのために、分けて考えるべきことが,ごちゃごちゃになってしまい、

問題が整理できずに、色々な誤解が生じてしまうのです。

 

物の有る無し、

能力の高低、

何かができるとかできないとか、

老いや若きの差は、必ずありますが、

それと、尊厳や命の価値、生きる意味は別物。

 

その違いが判らず、分けるべきことを分けて考えられないから、

極端な発想になってしまう。

 

 

まだうまく言葉にできない部分もありますが、

そんなお話でした。