【生命とは何か 5】仏教の生命観:自分の種まきが未来を生み出していく | 本好き精神科医の死生学日記 ~ 言葉の力と生きる意味

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「こんな苦しみに耐え、なぜ生きるのか…」必死で生きる人の悲しい眼と向き合うためには、何をどう学べばいいんだろう。言葉にできない悩みに寄りそうためにも、哲学、文学、死生学、仏教、心理学などを学び、自分自身の死生観を育んでいきます。

 

「生命とは何か?」について、考察してきました。

 

肉体的な生命について、様々な分子の流れからも「動的な平衡」といわれ、

哲学的生命論でも、「能動的自己同一」「あるまとまりを形成する力」と説明されています。

 

科学や哲学で説明されるこれらの生命観は、

仏教にも通じるところがありますので、次は仏教に生命観についてです。

 

 

  「種まきの流れ」としての生命

 

生命あるいは人生を「流れ」とみる見方は、日本文学には昔からみられていました。

方丈記の冒頭が有名です。

 

 ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。

 よどみに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。

 世の中にある人とすみかと、またかくのごとし。

このように、河は常にそこにあるけど、固定した同じものが存在するのではなく、変わりながら続いていく。 

こういう生命観は、仏教の心理学として知られる、唯識学に詳しく説かれています。

 

自業自得といわれるように、自分のまいたタネ(業:ごう)は、自分で刈り取らねばなりませんが、

そのタネ(業)が収まる蔵のようなものが、生命の本質であり、「私」であると説かれています。

 

それを、

「滝(暴流)」に例えられて「恒に転ずること暴流の如しとも表現されています。

 

遠くからは、一枚の布のようにみえる滝も、

実際には、一滴一滴の水がものすごい勢いで流れ続けています。

ちょうどそのように、われわれが日々、体や口の行いのみならず、心で思うこと(意業)も含めると、

滝のようにものすごい種まきをし続けているわけですが、

それら全てが、今の「私」を生み出しているということになります。

 

忘れていることもあれば、無意識の種まきもたくさんありますが、

まかぬ種は生えないし、まいたタネは必ず生える。

過去の種まきの集積が、現在の自分であり、

現在の種まきが、未来の自分を生み出していきます。

 

そして、その業は、「業力」という目に見えない力となって残るといいます。

 

科学や哲学でいう、流れとしての生命との違いは、

その流れを生み出す水滴は、私たち自身の行為(業力)を意味する、というところです。

 

人がもしも善または悪の行いをなすならば、かれは自分のした一つ一つの業の相続者となる。

実に業は滅びないからである。(『ウダーナヴァルガ』)

 

ブッダは、人間は「業の相続者」とも言われています。

善い種をまけば、善い結果が現れるし、

悪い種をまけば、悪い結果が引きおこる。

今の自分は、過去のどんな種まきの集積なのか・・・。

それこそが、自己を見つめるということなのでしょう。

 

 

  三世を流れる生命

 

仏教の生命観の、もう一つ特徴は、三世を説くところです。

方丈記の続きには、以下のようにあります。

 

 知らず、生まれ死ぬる人、いづかたより来たりて、いづかたへか去る

 また知らず、仮の宿り、たがためにか心を悩まし、何によりてか目を喜ばしむる。

 その、あるじとすみかと、無常を争ふさま、いはば朝顔の露に異ならず。

冒頭では、河に浮かぶ泡沫(うたかた)、

上記では、この世は「仮の宿り」だといいます。

 

まいたタネは必ず生える。

ゆえに、死ねば無になることは無い。

「因果応報なるがゆえに、来世無きにならず」。

 

このことは、『平家物語』の最終巻(灌頂巻、大原御幸)にも紹介されています。

因果経には「欲知過去因、見其現在果、欲知未来果、見其現在因」ととかれたり。

書き下すと、

 過去の因を知らんと欲すれば、現在の果を見よ。
 未来の果を知らんと欲すれば、現在の因を見よ。

 

 ゆえに、未来どんな結果を受けるかは、現在の因(種まき)を見ればわかる。

 だから、現在の自己を見つめよ、と。 

 

肉体は滅んでも、なおも流転する生命がある。

そして来世は、現在世の種まきによる。

 

死ねばどうなるのか、死後に暗い心、闇に降りていく感覚などと表現されるように、

死後への不安と、現在の自己を見つめることには、とても大事な関係があることがわかります。

 

 

  死を見つめることは、自己の心と向き合うこと

 

流れとしての生命は、この世で終わりになるわけではないならば、

それこそ、死を恐れなくてもいいのではないか。

この世が苦しいならば、安楽死に反対する理由はないのではないか。

そういう疑問もでてきます。

 

しかし、それは逆ではないかと思います。

よほど、自分の種まきに自信があれば、未来は明るくなるでしょうが、

自分の生き方にそんなに胸を張れるものでしょうか。

 

特に、心で思うことも種まき(意業)であるならば、

心の内をすべてさらけ出しても、何も問題ない、といえるほど、

人間は、立派なものでしょうか。

 

そういう人間としての弱さ、浅ましさ、醜さが、

死後への不安、スピリチュアルペインを生み出しているのではないでしょうか。

 

哲学者 キルケゴールの、次の言葉はまさにそれを表しています。

 不安は先回りする、
 それは結果を、それがやってくる前に、見つけるのである。

 

 

ゆえに、死ねばどうなるかの問題は、

死後に何らかの生命が続いていくからこそ、どうなるのかわからない不安が、

死の不安として立ち上がってくるのではないでしょうか。

 

死を見つめるとは、自分の心を見つめるということです。

 

ごまかしのきかない、自己との対面。

自己を見つめることは、簡単ではありませんが、

最後はそこに行きつくのだと思います。

 

日本が誇る哲学者、西田幾多郎が

「死の問題を解決するのが、人生の一大事」と断言するのも、

同じことを言っているように思えてなりません。

もし人生はこれまでのものであるというならば、人生ほどつまらぬものはない。
此処には深き意味がなくてはならぬ、人間の霊的生命は、かくも無意義のものではない。
死の問題を解決するというのが人生の一大事である、
死の事実の前には生は泡沫の如くである、
死の問題を解決し得て、始めて真に生の意義を悟ることができる。

 

 

そして、その解決にこそ

真に生の意義、つまりは、

「生命の尊厳」があるのではないでしょうか。

 

 

生命とは何か、について考えてきましたが、

これで一旦区切りとしたいと思います。

 

 

参考文献: