【生命とは何か4】科学から現象学、そして哲学的生命論へ | 本好き精神科医の死生学日記 ~ 言葉の力と生きる意味

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「こんな苦しみに耐え、なぜ生きるのか…」必死で生きる人の悲しい眼と向き合うためには、何をどう学べばいいんだろう。言葉にできない悩みに寄りそうためにも、哲学、文学、死生学、仏教、心理学などを学び、自分自身の死生観を育んでいきます。

生命とは何か?

死んだら「私」はどうなるのか?

 

そんな問いを考えるために、

科学的生命観についてみてきました。

それによると、

生命とは、「動的な平衡」であると。

 

変わりながら続く、情報の流れとしての生命。

 

次は、哲学者ハンス・ヨナスの哲学的生命論についてです。

 

 

  科学の本質は、「没価値性」

前回紹介した動的平衡論を、ハンス・ヨナスは哲学的に論じています。

ヨナスの生命論をひも解く前に、彼の「科学観」をみていきます。
 

ハンス・ヨナスは科学の本質は、「没価値的」であることだと言いました。

近代(17世紀)以降、テクノロジーは目的なく進化し続けるようになりました。

テクノロジー自身が引き起こす問題に対処するために、さらなる進歩を要求するようになっています。

インターネットやIT分野が代表的です。

利便性、処理速度、容量、安全対策、IoTなど様々な問題が次から次へと、キリがありません。

ゆえに、進化は止まりません。

 

このような科学の本質を、ヨナスは「没価値性」と呼びました。

これは、「無価値」ということではなく、「善悪の価値判断ができない」ということ。

もはや科学は、人間の意志を離れて進化を続けているため、科学自体は良いとも悪いとも言えません。

その価値を決めるのは、使う人間ということです。
それ自体が善いとも悪いとも言えない「没価値性」という考え方は、前述の「科学的生命観」にも言えます。

科学的に、生命現象をどれだけ詳細に解明できたとしても、それは没価値的。

そこに「尊厳」を見出すことはできない、ということです。

 

なぜ生命は尊厳なのか。

この問いは、科学としての医療の範疇を超えているわけです。

なので、どれだけ議論しても、尊厳が「ある」とも「ない」とも言えないのです。

 

医療にも「哲学」が必要である由縁です。

 

 

  哲学的生命論 

では、ヨナスは生命をどう論じているのでしょうか。

彼は、生命を「現象学的」に論じました。

 

現象学で生命を記述するにあたり、質量と形相という二つの基礎的な概念を用いています。

「質料」とは物質、「形相」とはその物質が形成する、あるまとまりのある形をいいます。

 

ヨナスは、生命の本質は代謝することにあるとみて、質量が絶え間なく変化してくことによって形相が維持される、と説明しました。

本来ならばまとまらないものを、「能動的に統一するもの」こそが、生命の本質というのです。

 

統一はここにおいてはさまざまに変わる多様性を媒介として自己を一つにすることである。自己性はそれが続く限り、絶えず自己を新しくし続けることである。

 生命の能動的自己統一だけが、個体という言葉に実体を与える。


この「形相」や「能動的統一」という概念は、

動的平衡論と類似したことを哲学用語を用いて表現していると言えないでしょうか。

事実、ヨナスは有機的生命の本質は代謝(同化と異化)にあり、変わり続けることで存在し続けると指摘しています。

そして、有機体が存在するためには「行為し続けること」が必要だといいます。

「動き続けなければならない」ことを「困窮している」といい、

ある固定した不変の物質によって束縛されているわけではないことを「自由」として、

生命の本質を「困窮する自由」と表現しています。

 

 

 

生きることの価値
では、生命の「価値」をヨナスはどう見たのでしょうか。

生命は、常に死の可能性にさらされながらも、生き続けます。

そこに生命の存在に意味が生じる、といいます。

生命にとって「非存在の可能性」が本質的となるということです。

 

必ず死なねばならないけれども、死なないように努力すること

目的に向かう努力には意味がある。

「死なないように」という目的をもつ生命にこそ、価値が宿るというのです。

 

ここから、存在それ自体が価値をもち、

生命の存在そのものが善であり、

生命を保護することには倫理的な意味・責任が生じる、と結論付けています。

 

 

 

 

 

このようにみてみると、
生命とは、「あるまとまりを形成させる力」であり、

「物質をまとめて、統一させるエネルギー」だとする意見は、生気論に近いものがあります。

 

生気論かどうかが問題というよりは、

機械論や唯物論だけで、生命と何かを考えるには、無理がある、ということがわかります。

 

 

とはいえ、ハンス・ヨナスの哲学的生命論は、

「死なないように」という「目的に向かう努力」に意味がある、価値が宿る、

というものですが、

疑問点が残ります。

 

「死なないように」という努力は、生きている間のことです。

また、「死を待つだけなら」「こんなに苦しいなら」と、

死なないための努力をするだけの気力が失われつつある人には、

意味を見出せません。

 

生命は、生きている間だけのものなのでしょうか。

死ねばどうなるのか、死ねば無になるのか、楽になれるのか。

この問いが残ります。

 

生命の本質が、「エネルギー」ならば、

エネルギー保存の法則からいっても、

無になると考える方が、矛盾してしまうようにも思います。

 

生命とは何か、

生きる意味はなんなのか、

なぜ生命は尊厳なのか。

 

これらの問いに応え得る生命観は、あるのでしょうか。

 

つづく。