自分のことは自分で決める。
それが一番いいこと、
それが一番の幸せなんだという考え方があります。
自己決定権を重んじ、
他人に依存しない自立した生き方、
自分のことは自分で決められる自律的な生き方こそが、
「自由」で、よい生き方だという考えです。
自己決定権をもつこと、
自分のことは自分で決めること、それが「人間らしさ」とすら言われます。
他人の意見に振り回されない、
自分の意見に自信を持てずに決められない。
確かに、それは不自由で、幸せを感じにくいかもしれません。
中には、
その先が崖だと知りながらも、そっちに行きたいという愚かな決断でも、
自分で選んだなら、それは自業自得、それを止める権利はない、という人もいます。
たとえそれが愚かなことでも、自分で決められるほうがいい、
おかしなことをやる権利がある(?)「愚行権」なんて名前もついています。
「安楽死」賛成の意見の根底には、こんな考え方があると、最近学びました。
でも、これが「人間らしさ」と言えるのか、個人的には甚だ疑問です。
現実には、自分のことを自分で決められない人は、たくさんいます。
大きな決断ほど、自分で決めるのは難しいですし、
まして、死の問題のような、まだ経験したこともないし、
死とは何か、死ねばどうなるのか、教えてくれる人もいないのに、
それを自己責任だから、自分で決めろ、それでどんな結果になっても自業自得、
自分のせいだというのは、突き放すような、無責任な冷たさを感じます。
もちろん、生死の問題は、最後は自分で引き受けなければならない孤独な問題です。
でも、だからといって、自己責任だからと、周りが手を引いてしまっては、
あまりに寂しく、心細く、不安に耐えきれなくて、それだけで参ってしまいます。
人間は、そんなに強くないし、正しいことは何なのか判断できないし、
間違った判断ばかりしているとすら思われます。
歎異抄には、
「善悪の二つ、総じてもって存知せざるなり」とか、
「いづれの行もおよび難き身なれば、地獄は一定すみかぞかし」とか、
「煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界は、
万のこと皆もって、空言たわごと真実あることなし」
など、人間の迷いの深さがこれでもかと教えられています。
私自身、いざ死ぬとなったときに、
「どんな結果になろうと、自己責任ですからね」
なんて言われたら、
ただでさえ心細いのに、さらに突き落とされるような絶望を感じると思います。
自己責任は、確かにそうでしょう。
別に他人のせいにしたいわけではありません。
でもそれは、正論すぎて、人間味がなさ過ぎて、
助けを求めたい気力すら切り落とされるような感じがします。
自己決定権は、もちろん大事なことではありますが、
それがすべてではありません。
自分の人生は、自分で切り開く。
だからこそ、助け合うことが必要だし、
先人の言葉に助けられ、目の前の患者さんの姿にも教えられ、
子供や次世代にも、「いざとなったとき」のことを、
元気なうちから考え、準備しておくことが大事であることを、伝えていきたいと思います。