自己決定権の嫌なところ。人間らしさとは? | 本好き精神科医の死生学日記 ~ 言葉の力と生きる意味

本好き精神科医の死生学日記 ~ 言葉の力と生きる意味

「こんな苦しみに耐え、なぜ生きるのか…」必死で生きる人の悲しい眼と向き合うためには、何をどう学べばいいんだろう。言葉にできない悩みに寄りそうためにも、哲学、文学、死生学、仏教、心理学などを学び、自分自身の死生観を育んでいきます。


自分のことは自分で決める。

それが一番いいこと、

それが一番の幸せなんだという考え方があります。

自己決定権を重んじ、

他人に依存しない自立した生き方、

自分のことは自分で決められる自律的な生き方こそが、

「自由」で、よい生き方だという考えです。

自己決定権をもつこと、

自分のことは自分で決めること、それが「人間らしさ」とすら言われます。


他人の意見に振り回されない、

自分の意見に自信を持てずに決められない。

確かに、それは不自由で、幸せを感じにくいかもしれません。


中には、

その先が崖だと知りながらも、そっちに行きたいという愚かな決断でも、

自分で選んだなら、それは自業自得、それを止める権利はない、という人もいます。

たとえそれが愚かなことでも、自分で決められるほうがいい、

おかしなことをやる権利がある(?)「愚行権」なんて名前もついています。


「安楽死」賛成の意見の根底には、こんな考え方があると、最近学びました。


でも、これが「人間らしさ」と言えるのか、個人的には甚だ疑問です。


現実には、自分のことを自分で決められない人は、たくさんいます。

大きな決断ほど、自分で決めるのは難しいですし、

まして、死の問題のような、まだ経験したこともないし、

死とは何か、死ねばどうなるのか、教えてくれる人もいないのに、

それを自己責任だから、自分で決めろ、それでどんな結果になっても自業自得、

自分のせいだというのは、突き放すような、無責任な冷たさを感じます。


もちろん、生死の問題は、最後は自分で引き受けなければならない孤独な問題です。

でも、だからといって、自己責任だからと、周りが手を引いてしまっては、

あまりに寂しく、心細く、不安に耐えきれなくて、それだけで参ってしまいます。


人間は、そんなに強くないし、正しいことは何なのか判断できないし、

間違った判断ばかりしているとすら思われます。


歎異抄には、

「善悪の二つ、総じてもって存知せざるなり」とか、

「いづれの行もおよび難き身なれば、地獄は一定すみかぞかし」とか、

「煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界は、
 万のこと皆もって、空言たわごと真実あることなし」

など、人間の迷いの深さがこれでもかと教えられています。


歎異抄をひらく歎異抄をひらく
1,728円
Amazon




私自身、いざ死ぬとなったときに、

「どんな結果になろうと、自己責任ですからね」

なんて言われたら、

ただでさえ心細いのに、さらに突き落とされるような絶望を感じると思います。

自己責任は、確かにそうでしょう。

別に他人のせいにしたいわけではありません。

でもそれは、正論すぎて、人間味がなさ過ぎて、

助けを求めたい気力すら切り落とされるような感じがします。



自己決定権は、もちろん大事なことではありますが、

それがすべてではありません。


自分の人生は、自分で切り開く。

だからこそ、助け合うことが必要だし、

先人の言葉に助けられ、目の前の患者さんの姿にも教えられ、

子供や次世代にも、「いざとなったとき」のことを、

元気なうちから考え、準備しておくことが大事であることを、伝えていきたいと思います。