【自由と不安6】 不幸を他人のせいにしているヒマはない | 本好き精神科医の死生学日記 ~ 言葉の力と生きる意味

本好き精神科医の死生学日記 ~ 言葉の力と生きる意味

「こんな苦しみに耐え、なぜ生きるのか…」必死で生きる人の悲しい眼と向き合うためには、何をどう学べばいいんだろう。言葉にできない悩みに寄りそうためにも、哲学、文学、死生学、仏教、心理学などを学び、自分自身の死生観を育んでいきます。

 

「ハリー、自分が本当に何者かを示すのは、

  持っている能力ではなく、

  自分がどのような選択をするかということなんじゃよ」

                   (アルバス・ダンブルドア)
 "It is our choices that show what we truly are,

   far more than our abilities."

          (Albus Dumbledore)

 

 

 

「自由」とは、「自らに由る」ことであり、

自分にとって大切なことを自分で選びとることです。

そのためには、

目的をはっきりさせて、選択基準をもつことが大事になります。


とはいえ、必ずしもその後

自分自身で行動しなければならないことではありません。

体が思うように動かなければ、だれかに依頼したり、助けてもらったとしても、

自分が選んだことを実行するためであれば、

それはとても「自由な」生き方だと思います。

 

「自由」には、

「心の種まき」を重んじた自由もあります。

心の向きが、自分の運命の向きを決めるからです。

自分の望む運命に向かって進むことこそが、本当の「自由」ではないでしょうか。

 

だから、自由は、

依存やサポートと対立しないし、矛盾もしないはずです。

 

脳梗塞や頸椎損傷で、四肢が動かず、

自分一人では体を動かせないような方にも「自由な生き方」はあるはずです。

身体を動かす自由は失われても、

自分にとって最も大切なこと、生きる目的を果たすために生きてこそ、

周囲のサポートも意味を持ち、やりがい・生きがいを共有できます。

 

助け合うからこそ、

選択の幅が広がり、より自由に生きられるのではないでしょうか。

 

「自由な生き方」とは、

本当に望むもの、「生きる目的」を共有し、

それに向かって一緒に進み、

支え合うことともいえるのではないかと思います。

 

 

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「自由」であることを、『7つの習慣』では、

「主体的」であると表現しています。

「主体的」とは、「自分の価値観に基づいて行動(選択)する」ことです。

 

自分の悩みを

他人の行動、条件付け、あるいは周りの状況のせいにするのは
とても簡単である。

しかし、私たちの人生をコントロールし、
自分のあり方や人格そのものに集中することにより、
自分の周りの状況に大きく作用を及ぼすことができるのだ。

 

不自由とは、「現状を変えられない不満」ともいえます。

 変えられない他者によって自分のことが決められている、縛られている、支配されていると感じる窮屈さ。

不自由であるとは、他人のせいにすること、とも言えそうです。

7つの習慣では、主体的(自由)ではない、その反対の姿勢(不自由)を、

次のように表現しています。

 

問題は自分の外にあると考えるならば、
その考えこそが問題である。

 

 

 

「幸せ」な生き方は、

必ず、感謝のあふれる生き方です。

 

逆に言えば、「不幸」とは、

感謝の心のない生き方です。

 

私たちは、不幸を他人のせいにしている暇はありません。

幸せに向かって生きているのですから。

 

 

松下幸之助さんも、そう教えて下さっています。

 

松下幸之助さんが、船を下りて波止場を歩いていたら、
いきなり大男にぶつかられ、海に落ちてしまいました。
一緒にいた秘書が、
「社長、大丈夫ですか。私が文句言ってきますよ」
と言ったのですが、そのとき幸之助さんは何と言ったと思いますか?

普通の人なら海に突き飛ばされて、「ふざけるな」と思うでしょう。
追いかけてあやまらせ、クリーニング代くらいもらってもよさそうです。
でも、幸之助さんは一言、「ああ、夏でよかった」と言いました。
そして、文句を言ってやろうと息巻く秘書に向かって、

「馬鹿者。
 今から文句を言ったからといって、私は海に落ちないで済んだのか。
 海に落ちないで済むなら、いくらでも文句を言いに行く。
 だが、そんなことはありえない。
 いまさら文句を言ったところで
 私が海に落ちたという事実は何も変わらないじゃないか。
 先を急ぐぞ

そう言って、ぬれたスーツを手で払いながら、さっさと歩きだしました。

 

 

 

 

限られた命だからこそ、無駄遣いはできません。

本当に大切なことに集中してこそ、

「尊厳な生命」といえるのではないでしょうか。