【なぜ生きる】 吐いた息が吸えないときから後生である。それは、一分後かもしれない。 | 本好き精神科医の死生学日記 ~ 言葉の力と生きる意味

本好き精神科医の死生学日記 ~ 言葉の力と生きる意味

「こんな苦しみに耐え、なぜ生きるのか…」必死で生きる人の悲しい眼と向き合うためには、何をどう学べばいいんだろう。言葉にできない悩みに寄りそうためにも、哲学、文学、死生学、仏教、心理学などを学び、自分自身の死生観を育んでいきます。

死と聞くと、まだまだ先のこと、
遠い先のこと過ぎて、考えられない(考えたくない)、
と思いがちですが、考えようによっては、もっと身近に感じられるのかもしれません。

やはり答えは、ブッダの言葉にあるのでしょうか。



■吐いた息が吸えないときから後生である。それは、一分後かもしれない。

死んだ後の後生と聞くと、30年も50年も先のことのように思いがちだが、
そうだろうか。
今晩死ねば今晩から後生であり、いや一時間後、一分後かもしれない。

阪神大震災のときなどは、机で勉強していた姿勢のままで亡くなっていた受験生もいた。
今日も全国各地で多くの人が、交通事故などで命を落としている。
死ぬなんて、ユメにも思っていなかった人たちばかりであろう。
私たちは、いつ後生へ突っ込んでゆくかもしれないのだ。

「出息入息不待命終」
“入る息を待たず、命終わる”釈尊は説かれている。
吐いた息が吸えないときから後生がはじまる。
吸う息吐く息が、死とふれあっていることが知らされる。

たとえば12月31日、午後11時59分59秒では、
1秒後に31日が1日に、12月が1月に、今年が来年に変わるように、
今生が後生に変わるのも一瞬である。
されば「後生」といっても、吸う息吐く息の「現在」におさまるのだ。

後生暗い心とは、五十年、六十年先の闇ではない。
今に暗い心である。
現在に暗い心とは、現在の自己に暗いことにほかならない。
自己の現在を隠すもの、それが無明の闇なのだ。
無明が破れて、自己の素顔が明らかになると、過去も未来も鮮明になる。

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死が分からない、ということは、
死んだらどうなるかが分からない、ということ。

そもそも、死後が有るのか無いのか。
まあ、ハッキリしないですが、
ブッダ曰く、未来の姿は、今の自分の種まきが決める。
因果応報(今の種まき(因)に応じて未来(果報)が生み出される)である、と。

だから、今の自分の姿をよ~く見つめてみなさいよ。と。
お先真っ暗なのは、自分がどんな報いを受けるような人間なのか、
自分で自分のことが分かっていないから。

未来が不安なのは、何か後ろめたいことがあるからか?

まいた種に応じた結果がやってくるだけですよ、と。



参考


■未来の果を知らんと欲すれば、現在の因を見
(まっすぐな生き方)

■人は自身の行為(業力)によって死後の報いが定まる(歎異抄をひらく)