本好き精神科医の死生学日記 ~ 言葉の力と生きる意味

本好き精神科医の死生学日記 ~ 言葉の力と生きる意味

「こんな苦しみに耐え、なぜ生きるのか…」必死で生きる人の悲しい眼と向き合うためには、何をどう学べばいいんだろう。言葉にできない悩みに寄りそうためにも、哲学、文学、死生学、仏教、心理学などを学び、自分自身の死生観を育んでいきます。

長足の進歩を果たした現代の医療は、
深い問いを人間になげかけています。

「必ず死ぬのに、なぜ生きるのか・・・」

真面目な患者ほど悩み、
やさしい医療者ほど燃え尽きてしまうこの問い。

でもこれは、
「人間に生まれてきてよかった、
 大変だったけど生きてきて本当によかった」

と幸せな人生を送るためには避けては通れません。

専門家でもなく、一般の人とも違う“研修医”だからこそ見えることもあるはず。

最近の連載
>>「医療現場で考える、やさしさの死生学」(仮題)

後学のため、ご感想を頂ければ幸いです m(_ _)m

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医療職に限らず、援助職は、

けっこうイライラする場面が多いのではないかと思います。

 

そもそも、人間にとって(人間である限り)怒りは避けられません。

世の中、ずっと自分の思うとおりにいくことは無いからです。

 

思い通りにいかないことは、特に対人関係において多いため、

人を相手にする仕事では、イライラする気持ちと以下に向き合うか、

アンガーマネジメントは必須ではないでしょうか。

 

さらに、対人関係というだけでなく、

援助職は、さらに怒りが生じやすい気がしています。

援助は、

「相手にこうなってほしい、こうなったらきっと喜んでもらえるはず」

という動機から始まります。

 

その通りに相手が喜んでくださればいいのですが、

必ずしもそうならないのが、世の常です。

 

話を聴いてほしいのかなと思って話しかけたら、そうっとしておいてくれと言われたり、

今はそうっとしておいてほしいのかなと思いきや、なんで放っておくんだ、全然話も聞いてくれない、とすれ違ったり。

 

小さな親切が、大きなお世話になってしまうこともあり、

何が相手の望みなのかを100%予測できるはずもなく、難しい場面は多々あります。

「こうじゃない、そうでもない、どうしてもらいたいのか自分でもわからないけど、とにかくつらい。。。」

そんな訴えも珍しくありません。

 

しかし、よくよく考えれば、

人はそれぞれ、経験も能力も性格も体調も、全く同じではありえず、千差万別、億差兆別。

 

怒りの心は、「普通はこうでしょ(こうすればラクになるはず)」という自分の基準で、

相手を推し量ろうとするところから出ていると言われます。

 

まずは、「相手のため」と思いながらも、

つい「自分なりの善意」の押し付けになっていなかったかを反省するところから始めねばと思います。

 

そして、訴えが多いのは「自分を困らせようとしてのことではない」という確認も意外と有用です。

いわゆる

「困った人は、困っている人」とみることです。

 

「自分を困らせようとしている、困った人」と相手をみてしまうと、怒りの心が燃え上がりますが、

「困っているが故の訴えなんだよな」と思い直すと、怒りの心は静まり、優しくありたい自分がよみがえってきます。

 

「なぜ生きる」という座右の書に、

「善いことをすると腹が立つ」という章があります。

親切心のウラに、見返りを待つ心が見え隠れするいやらしさを「雑毒の善」と表現されています。

よいと思って努めているのに、相手が”ほめもせず””感謝もしない”ととたんに腹が立つ。

「あんなにしてやったのに」「これだけしてやっているのに」

「してやっている」の恩着せ心の思惑が外れると、二度とやるまいと決意する。そういえば偽善者とは、「人の為といって善をする者」と書いてあるのに感心する。

受けるよりも、与えるよろこびを知ってはいるが、「与えた」という意識が離れ切れない。千円与えた礼を聞けないよりも、一万円の時が不愉快だ。一万円よりも十万円、十万よりも百万ともなれば後悔どころではすまないだろう。

大善ほど猛毒を含む人間の善の実態を、龍樹菩薩はこう道破する。
「四十里四方の池に張りつめた氷の上に、二升や三升の熱湯をかけても、翌日そこは、ふくれ上がっている」(大智度論)

しかしここで、こんな誤解に答えておかねばならないだろう。

それでは冷淡な人間であってもよいのか。ものをあわれむ心は要らないのか。善に向かう姿勢を嫌うのか。放逸に油を注ぐことにはならないか。

もちろんそれは逆である。

逆境の人をあわれみ悲しんで、ふと気がつくと”慈悲深い我”と得意になっている醜さに驚くのは、心から善に向かった者だけだ。真の善人になろうと努めるほど「悪性さらにやめがたし」と悪性の根の深さを知り「これではいけない」と反省し努力せずにおれなくなる。

 


怒りの心と向き合うことは、自分の心と向き合うことです。

良かれと思ってやったのに、相手に拒否されてしまうと、

ついつい怒りの心で「全部やめた」と投げ出したくなりますが、

そこでグッとこらえて色々考えてみると、今まで気づかなかったような自分の心が照らし出されます。

 

援助を通して、自分自身と向き合う機会にしていきたいと思います。

 


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医療者がアンガーマネジメントを学ぶ機会は多くないと思いますが、

医療者は、けっこうイライラ、怒りを抱えやすいような気がします。

自分なりの治療方針、「こうしてあげたい」というケアの信念をもっているからです。

医療者・援助者が「こうしてあげたい」と思っても、相手はそれを望んでいないかもしれない。

あるいは、様々な事情で医療者不審になっていて、素直になれない人もいます。

 

精神科であれば、

少しくらいは薬を使ってでも眠れた方が早く回復するのではと思って、

向精神薬に強い抵抗を持たれる方は珍しくありません。

また、家族関係に悩みがあると自宅では安心して休めないこともあるため、

入院を勧めても「精神科病棟は怖いところ」というイメージが強すぎて、拒否される方もいます。

患者さんとじっくり話をしたくても、患者さんがイライラしていたり、対人不安が強くて、

時間ばかりが過ぎて、なかなかじっくり話ができず、ただただ時間が過ぎてしまったり。

もちろん、その方の気持ちは尊重したいと思いますが、

中には「それはちょっと偏見が強すぎるような・・・」と感じることもあり、

イラっとしてしまうことはどうしてもあります。

 

このような、自分なりの信念、あるべき姿がわかっていながら実行できない苦悩を、

「道徳的苦悩(moral distress)」と言われます。倫理的道徳とか、モラル・ディストレスとも表現されます。

自分なりに倫理的・道徳的に適切な行動が必要であると分かっていても「妥協しなくてはならず、その行動ができない時に起こる苦痛な気持ちや心理的不安定さ」です。

ほかにも、

「危機的状況にある患者・家族と、医療者との、共通理解の困難さのために治療が遅れる、できない)」、

「患者・家族を中心とした治療・処置やケアをしたいと思っても、十分にできない」、

「他医療者との価値観の相違を声にしづらい、暗黙の了解で立場が下の人は我慢するしかない」など様々です。


 

思うとおりにコトが進まないとイライラしてしまうのは、人間なら誰しもあることですが、

だからこそ、その「怒り」とどう向き合うかは、大切なスキルではないでしょうか。

モラルディストレスは、怒りのみならず、共感疲労や、燃え尽き症候群(バーンアウト)、うつ病などにもつながりやすく、その対策は重要です。

 

アンガーマネジメントは、モラルディストレスのマネジメントにも成りうる既存の方法としても有用だと思います。

 

 

怒りとどう向き合うか分からないと、

・怒りをぶちまけるか

・怒りをひたすら我慢するか

どちらかになりがちです。

 

前者では、

患者さんとの信頼関係を築くのが難しくなってしまいますし、

医療チームとの関係も決まづくなってしまい、パフォーマンスが落ちます。

 

後者でも、

表面的には相手に合わせていても、心は離れがち。

「こちらの言うことを聞く気がないなら、好きにしたらいいんじゃないの」とか。


冷静になって振り返ると、我ながら酷いなと思うような心が出てきてしまうこともあります。

怒りは理性を焼き、無謀に始まり後悔に終わるとも言われる通りです。

 

目指したいのは、そのどちらでもなくて、

医療者側の意見と、患者側の意見が異なったならば、

話し合いを重ねて、互いの意見をすり合わせて、第3の案を探すことのはずです。

そのためには、怒りの裏にある自分の信念を再確認したり、

こちらの意見を、相手の感情にも配慮しながら、どう伝えるか、という

アサーティブなコミュニケーションスキルも必要です。

極端にならないように、中庸を目指した言葉選びを練習する必要があります。

 

 

怒りを知ることは、自分を知ることです。

 

HUNTER×HUNTERにも、次のような名言があります。

「その人を知りたければ、その人が何に対して怒りを感じるかを知れ」(1巻)

 

それだけ強く感情が動くということは、

それだけ強い思い入れがある価値観、信念があるはず。

でも意外と自分でも気づいていないこともあります。

 

怒りを通して、自分自身を見つめる機縁としたいものです。

 

 

 

 

 



面白い本でした。

ナチスのホロコーストや、優生思想は、二度と繰り返してはならない、
人類の悲劇ですが、
くり返さないためには、しっかりと反省し、何を学んだのかが大事になります。

人種や命を差別してはいけない、
人は平等に尊厳なんだ、ということはもちろん大事な反省。

加えて、
そのような優生思想がなぜ生まれたのか、
その人間心理に立ち返った反省が必要ではないか、というのが、
ハンナ・アーレントの指摘です。

その原因を、
2つの主著「全体主義の起源」と「イェルサレムのアイヒマン」で彼女は、
(人はなぜ生きるのかを)考えないまま、わかりやすく実感しようとする「無思想性」からではないかと説明しています。

強制収容所で、何百万人もの人を殺したガス室の「ボタンを押す」
それを「仕事」として淡々とこなしたアイヒマン。
どんなに残虐な悪魔なのか、
あるいは、嫌々やらされて後悔していたのか、
裁判では、彼がどれだけ「悪人」なのかが注目されたようです。

しかし、アーレントが目撃したアイヒマンは、
いわゆる「極悪非道な人間」ではありませんでした。

自分に課せられた「仕事」を忠実に実行しただけ。
ただそれだけだった。

そんなことで何百万人も殺したのかと、違和感を覚えますが、
むしろ、だからこそ大量虐殺ができてしまったとみる方が正しいようです。

つまり、悪意を持って殺そうとしたら、
あまりの悪事に自分が耐えられなくなるのが普通です。
しかし、悪いことをしているという自覚がなければ、
それはいくらでもこなせてしまう。

無自覚だからこそ、人は悪を繰り返せてしまう。繰り返してしまう。
これを「凡庸な悪」と、アーレントは言っています。

特別な悪意があるから、ではなく、
何も考えていない、平凡な人間だからこそ、悪を重ねることがある。
知らずに人を傷つけ、殺してしまうことがある。
そんな、人間の弱さ、恐ろしさを見抜いた本です。

この人間の弱さは、弱々しさとは対照的に「正義感」として現れることもあります。
自身の考えが正しいと固執することは、多様性や差異を認めず、
相手を見下すことにつながります。
何かに強いこだわりを持ってそれに忠実であろうとする人ほど、
「悪の塊」になりかねない。。。

悪は平凡なものではなく、
非凡な悪意をもった「悪人」だからこそなせるワザという、
思い込み、偏見、そして期待が、私たちにはあります。

アーレントの言う無思想性の「思想」とは、
そもそも人間とは何なのか、人はなぜ生きるのか、というような人間の存在そのものにかかわる、いわば哲学的な思考。
アーレントが「凡庸な悪」というも、善の対極というより、哲学的に考えることをやめた人が陥るものとしてイメージされています。
その意味では、私たちが普段「考えている」と思っていることのほとんどは「思想」ではなく、機械的処理(ただ物事をこなすだけ)になってはいないか。まずはそのような反省が必要ではないでしょうか。
無思想性に陥っているのは、アイヒマンだけではなく、誰もが陥りやすい罠なのでしょう。


私たちは、自分で自覚している以上に、
「知らずに犯している罪」が多いのかもしれません。

そんなこといったら、悪いことばかりしている気がして、何もできなくなりそうですが、
ここで考えたいのは、
「悪いことをしてはいけない」と必要以上に縮こまる前に、
「人間にとって本当に大事なことは何なのか」
「その、大事なことを忘れてしまうこと自体が、悪いことではないのか」
という反省が大事なのではないでしょうか。

「全体主義」が狂気に走るのも、一人一人が、自分の人生を生きようとせずに、
「誰か」の言葉に安易に流され、きちんと考えようとしなかったから、でした。

自分の人生は、自分のもの。

自分を大切にしたいと思いますし、
患者さんや自分と縁のある人にも、自分を大切にしていただきたいと思います。

 

ここのところ、

・ポジティブ中毒、

・幸せでなければいけない症候群、

・罪悪や失敗を過度に恐れて、抱えきれない社会

などについてまとめてきました。

 

そういう目で色々見ていると、同じような指摘はたくさんあります。

今回は「ポストコロナの生命哲学」という本からです。

福岡伸一さん、伊藤亜紗さん、藤原辰史さんの対談本です。

その中で、映画版ではなく、

漫画版「ナウシカ」も参考に、ポストコロナについて語られている箇所から引用です。

 

消毒文化あるいは潔癖主義は排除を求める心性と一体です。

たとえば、真っ白なシャツだとどんな小さなシミでも目立ってしまうのと一緒で、社会に潔癖主義的な空気が漂っていくと、「汚れ」と思えるものが少しでもあると気になってしまい、消したくなるという心理的状況が働きます。その「汚れ」が見えなければ見えないほど、人々は恐怖感にかられ「汚れ」とされるものへの差別意識を強めていく

いろいろな価値観が入り乱れていく中で、純粋を求める潔癖主義の価値観が大きな力を持っていくということ自体は理解できます。しかし、危機に際し、特に為政者の側から見た、生きるべき「清潔な」人とそうではない「汚れた」人という選別意識と、異分子の存在しない清浄な世界という概念に取りつかれる恐ろしさを忘れてはいけません。あらゆるところで消毒が行われている今だからこそ、消毒文化あるいは潔癖主義が広まっていったときに何が起こるのかということを、私たちは改めて考え直さなければいけないと思います。

コロナの世界において注目すべき一つの大きなキーワードは「きれい過ぎる世界」だと思っています。私たちは、人間の不浄な部分に蓋をしがちで、ずっときれいなまま、若いままでいたい、常に成長していたい、といった欲望にずっと心を奪われてきたと思います。今回、新型コロナウィルスの感染拡大の中で私たちが見つけ出そうとしているのは、そんなきれい過ぎる人間観を見直すということではないでしょうか。不浄な世界で生きようとするナウシカの姿は、私たちは汚れを抱えていかないと生きていけない、というメッセージではないかと思います。そもそも人間というものは、あらゆる意味で清浄ではない、不潔な生き物なわけですから。

私たちの社会は今、何かに取り憑かれたようにノイズを消していく方向へと向かっています。それは消すほうにとってみれば確かにとても心地よいものかもしれませんが、反面、手を汚さない、冷たい暴力を伴うものでもあるわけです。

 

 

これを読んでいて思い出したのは、

岡田斗司夫さんの「ホワイト革命」です。

 

ホワイト革命とは、世の中の価値観が、

ブラックでないこと、ホワイトであることに重きを置かれるようになっていくということだそうです。

ホワイトとは、清潔さ、清廉潔白さ、見た目のキレイさ、誤りのなさ、など。

岡田斗司夫さんのほかの動画では、

ちょっと前は、自由であること、競争や上昇志向が重んじられていたのが、

今は、優秀な人ほど競争を嫌い、共生・仲間意識を重んじる水平志向になっているとのことです。

競争に勝って立場を得ても、かえって責任が増えて大変になるだけ、と思えば、

ムリせず、それなりに頑張って、横のつながりを大切にして、平和に楽しく過ごせればそれがいい、と感じる人は増えている気がします。

 

それがまた、スマホやSNSの普及とともに、

自分のいいところ、きれいなところ、ホワイトなところだけをアップして、

視聴回数や「いいね」の数に重きが置かれているのも、ホワイトな世界と言えそうです。

これが行き過ぎてしまうと、トキシック・ポジティビティ(ポジティブ中毒)となっていく。

 

最近の10代20代では、

「実際に幸せかどうか」とは別に、

「幸せそうに見えるかどうか」が重要で、最優先されるという話もあります。

 

 

 

岡田さんが動画で言われていて興味深かったのは、

一昔前までは、汚いことや不潔であることこそが「本音」であり、自分を偽らない人間の本質を表しているという価値観があったということです。

私のイメージだと、不潔というか「だらしないけど、それこそ人間らしい」という代表が「男はつらいよ」の寅さんだったのかなと思いました。

その時代を引きずっている人の中に、

「みんなやってなくても、本当はこう思ってるんでしょ」とでも言わんばかりに、汚い言葉でヤジを飛ばす人がいるそうな。

それは、ヤジではなく、誹謗中傷であり、犯罪なわけですが。

 

これは、現代のホワイトな世界が「きれいなものこそ正しい」という価値観であるのと反対に、

ちょっと前は、「汚いものにこそ本質がある」という価値観だったという見方もできるようですが、それは誤解ですよね。

人間の本質は、時にキレイゴトでは済まない、醜さや意地汚さもありますが、

「汚い=本質であり、正義」というのは、誤解です。

「りんごは赤い」というのと「赤いのはリンゴ」というのは意味が違います。

 

あるいは、ホワイトな世界では「汚いものは正しくない」という論理も成り立ちますが、

ルッキズム(外見至上主義)もまた、やや極端です。

もちろん、不潔よりは清潔の方がいいですが、いくら「見た目が9割」といわれても、

極論となると、大切なことを見失いがちです。

 

これはまた、

それだけ「人間の汚さ」を受け入れることが如何に難しいかを物語っているのかもしれません。

 

できるだけ、きれいな世界にいたい、痛みや苦しみは感じたくない、情けない自分は認めたくない。

ノイズを消したい、不浄なものは排除したい。

できるだけ生産性は高く、効率よく、おしゃれに、かっこよく、美しく。

そうでないものは、価値がなく、意味がなく、尊厳もない。

そうやって、命の価値まで貶められつつあるのが現代です。

 

現実は認めたくないことで溢れています。

認めようと認められまいと、時は流れ、嫌なこともやってくる、まいたタネは生えてくる。

どれだけアンチエイジングに努めても、年は取るし、

どんなに健康に気を付けていても、最期は死んでいかねばなりません。

 

「汚れ」が見えなければ見えないほど、人々は恐怖感にかられ
「汚れ」とされるものへの差別意識を強めていく。

とあるように、ホワイトな世界を目指せば目指すほど、潔癖度が増してしまい、不安にある。

心の中の「汚い自分」「他人を傷つけてしまうかもしれない不安」「好きなのに、嫌いだと感じてしまう自分」を許せなくて、自分をごまかし、抑圧し、否定してしまうことにもなりかねません。

 

ホワイトな世界になっていくからこそ、

「ホワイトにならない心、ブラックな心」をどう受け入れていけばいいのか、

「罪悪観」が次のキーワードになるのではないかと思えてなりません。

 

状況にかかわらずポジティブな態度の維持にこだわることは、ネガティブな感覚の正当性を奪い

苦悩を無益なもの、ひいては軽蔑すべきものに変えることにならないだろうか? 

本書はそうなると考える。

 

注意を悪からそらせて、ただ善の光の中にだけ生きようとする方法は、それが効果を発揮する間は、すぐれたものである。(…)

しかし、優湯があらわれるや否や、それは脆くも崩れてしまうのである。そして、たとえ私たち自身が憂鬱を免れているとしても、健全な心が哲学的教説として不適切であることは疑いない。なぜなら、健全な心が認めることを断固として拒否している悪の事実こそ、実在の真の部分だからである。結局、悪の事実こそ、人生の意義を説く最善の鍵であり、おそらくもっとも深い心理に向かって私たちの目を開いてくれる唯一の開眼者であるかもしれないのである。  ウィリアム・ジェイムズ『宗教的経験の諸相』

 

 

つづく。

 

罪悪観シリーズを続けています。

 

最近は、つらい状況にありながらも「自分が悪い」と自分を責め、

自己責任だからといって、誰かに助けを求めるでもなく、悶々とし続けるしかなくなってしまう。

そんな人が増えているような気がして、

「罪悪感」をテーマにいろいろ考えています。

 

 

つながらない「弱者」と「被害者意識」

 

精神科医の斎藤環先生の「「自傷的自己愛」の精神分析」。

とても興味深く、何度も読み返しています。
この本の最初の方で、最近の若い人の中で気になるのが、

「弱者であること」が必ずしも被害者意識につながらない、という指摘があります。

苦悩の元凶はネオリベラリズムという名の「システム」として漠然とイメージされていて、このシステムは彼らに「自己責任」という規範を要求します。

自己責任の論理は、若者たち自身によって進んで内面化され、それが内側から彼らを苦しめます。自己責任も果たせずに社会に迷惑をかける「醜い」存在として、彼らの被害者ならぬ加害者意識はいっそう強化されてしまうのです。彼らがどんなに追い詰められてもデモに行ったり「社会を変えよう」という意識を持ったりしにくいのは、自分自身を被害者として認識できないためもあるでしょう。

かくして彼らは、自らの存在意義を見失い、「なんのために生きるのか」「自分の生に意味があるのか」がみえなくなってしまいます。ホームレス支援活動に携わる湯浅誠氏は、こうしたい意識のありようを「自分自身からの排除」と呼んでいます。

私は彼らに、健全な自己中心性を持ってほしいと願っています。それはたとえば「ポジティブな被害者意識」のようなものかもしれません。苦しいときに、それを自分のせいにばかりするのではなく、自分を苦しめる社会システムを批判したり、それを温存している政治家を叩いたりするような自己中心性=被害者意識。それを心から願いながらも、実際には、それがひどく難しいことであろうとも思います。

 

 

自分が被害を受けながら、

「自分も悪いんです」ならまだしも、

「自分が悪いんです」と受け止めて、一人で苦しみ続けてしまう。

苦しみの孤立化は、トラウマになりやすく、

トラウマは、自分と世界は危険であると認識をゆがめてしまうため、ますます援助を求めにくくなってしまいます。

 

危険の中で生き続けるということは、

他人を信頼しにくくなるということでもあります。

「大丈夫?つらそうだけど」と、誰かが手を差し伸べてくれるチャンスがあっても、

「大丈夫です、フツーです」と答えてしまう。

自分に自信がもてないために、

他人に相談すること、自分のことで時間や労力を使ってもらうことは、

相手に迷惑をかけることであり、罪悪感につながってしまう。

「被害者意識」をもてれば、支援を受ける権利があると思いやすいですが、

それすらもてないと、流転輪廻のごとく、悪循環が止まりません。

 

 

脱被害のために

 

被害/加害というワードで連想するのは、

「被害と加害をとらえなおす」信田さよ子、シャナ・キャンベル、上岡陽江、三氏の対談本。

この中で、信田さんが書かれた「脱被害はいかにして可能か」という一節があります。

そのためには「被害者と名づける」ことには、3つの意義があると指摘しています。

 

1.状況の再定義としての意味

悪いのは自分であり、感覚が過誤であると信じるしかなかった世界を再定義して、新たな世界へと転換させる意味である。なぜなら被害者である自分は悪くないのであり、責任もないからだ。責任がないことを認めることは、どうしようもなかったと思うことにつながる。いったん「ぜーんぶ、しかたなかったんだ」とまるごと包含し過去を認めきるために、自分を被害者と定義することは必須である。

 

2.被害者であり続けることをやめるため

逆説的であるが、「被害者をたっぷりやる」ことは、被害者を脱するためにこそ必要な段階なのだ。

(中略)今の苦しみに自分は責任がないという免責性を強調している点だ。被害者ということばは、このように責任がない、悪くない、正義である、正しいのは自分だ、だから主張は認められるべき、といった過程を経て、いつのまにかとほうもない権力をさえ帯び始めるのだ。それを「被害者権力」とわたしは呼んでいる。わたしはこの権力を嫌悪している。ときにはそのことに悲しみすら覚える。被害者であることの権力性は、絶対的正義の衣をまとっており、そこに甘んじていることの安易さは、ときとしてさらなる弱者への支配に連なっていく

 

3.加害者がきちんと存在していることを意識する

脱被害者とは何だろう。それは加害者を超えることである。超えるとは社会的地位や力によってではない。加害者を支えるからくりを知ることによってである。

 

 

 

自分は被害者であると認めることは、

自分は苦しかった、つらかったと訴える権利があることを認めることであり、

生き延びるためには感覚をマヒさせて苦痛をやり過ごすしかなかった感覚をよみがえらせ、

「本当はつらかった」という自分の感覚・感情を、ちゃんと信じられるようになることです。

 

この「健全な被害者意識」がこじれると、

ゆがんだ被害者意識である「被害者権力」みたいなものにつながっていきます。

 

健全な被害者意識につながれば、

免責することで自己責任という名の罪悪感に苛まれることなく、

適切な支援につながり、キズを癒し、回復していき、被害者を脱することができます。

 

しかし、免責されたことが「自分は悪くない」「悪いのは相手」「自分は正義」「正義に逆らうものは悪」と、ゆがんだものになることがあります(と理解しました)。

「自分は被害者である」ことが「免罪符」であるかのように勘違いし、

疾病利得のように、過剰に責任の免除を求め、権力を手にした暴君のように、横暴になってしまう。

これもまた、悲しい形の再演、取り入れなのか、加害者の真似をしてしまうのかもしれません。

あるいは、「私は傷ついた経験がある被害者なので、配慮してください」と延々と免責・無責を他者に強要し、それが受け入れられないと他責的になり、それが高じて攻撃的になってしまうこともあります。

 

こうなってしまうと、

苦悩のために、別の罪を造り、更に苦悩が増し、

支援も遠ざかる、といった悪循環から抜け出せなくなってしまいます。

抜け出し方が分からなくなってしまう。

 

被害や加害の背景に、どんなからくり、どんなストーリーがあったのか、

それを聴いて、加害者を許すわけではないけれど、

「全く理不尽な暴力だったわけではなかった」という意味付けができるだけで、

悪循環がとまるきっかけができてきます。

 

罪悪感の背景には、必ず苦悩があります。

苦悩を見つめていくと、人間の罪悪が観えてきます。

これが罪悪観。

 

本当の意味で人間の罪悪が観えてくると、地に足の着いた人間観、幸福観が深まっていくはずです。