「利他は、受け身の姿勢」「利他は、自分の変化の裏返し」 | 本好き精神科医の死生学日記 ~ 言葉の力と生きる意味

本好き精神科医の死生学日記 ~ 言葉の力と生きる意味

「こんな苦しみに耐え、なぜ生きるのか…」必死で生きる人の悲しい眼と向き合うためには、何をどう学べばいいんだろう。言葉にできない悩みに寄りそうためにも、哲学、文学、死生学、仏教、心理学などを学び、自分自身の死生観を育んでいきます。

最近は、「利他学」について勉強しています。

 

■利他は、「してあげる」ことではない

2020年、東京工業大学に「未来の人類研究センター」が発足し、

そこで研究されているテーマが「利他学」とのことです。

 

利他というと、「他を利する」ことですから、

誰かに何かを「してあげる」ことを考えますが、そうではない、とのことです。

 

利他の主体は、どこにあるのか、という基本的なところを考えると、

「する側」が主体なのではなく、

その行為を「受け取る側」が喜べてこそ、利他になる。

 

「する側」を主体に考えると、ともすれば「善意の押し付け」になってしまい、

「受け取る側」は、「押し付けられてしまった感」が強くなり、

「お返ししなくちゃ」

「借りを作ってしまった」

「弱い立場を演じさせられている」

という「ありがた迷惑」感すら、与えかねません。

 

 

伊藤亜紗さんは、次のように仰います。

私が考える利他は、「この人は困っているから、これをしてあげよう」という

先回りの能動的な働きかけではなく、

相手の言葉や反応に耳を傾け、隠れた可能性を引き出すこと。

これが私の考える利他です。

ここで重視されているのは、相手を自分のコントロール下に置くのではなく、

相手の力を信じることです。

利他は受け身の姿勢なのです。

 

最初は、「こんな風に喜んでもらいたい、楽になってほしい」と思って、

相手のためを思ってやるわけですが、

そのシナリオ通りにいくとは限りません。

本当の困りごとは、違うところにあるかもしれないし、

自分が良かれと思っていたことが、その通りうまくいくとも限りません。

 

利他は、する側と、受け取る側の、相互作用ですし、

であればこそ、どちらか一方の考えた通りになることは少ないはずです。

 

たとえば、

相談を受けて話を聞いていると、

ついついアドバイスをしたくなりますが、

得てして、アドバイスは「余計なこと」だったりします。

相手は、「ただ話を聞いてほしいだけだったのに・・・」という場合は特に。

もちろん、アドバイスすること自体が余計なことではありませんが、

自分なりの「良かれと思ってした利他」は、

必ずしも相手が望んでいる「してほしい利他」ではないということは、肝に銘じておきたいことです。

 

 

この場合、

目的は「相手に楽になってほしいな」ということであって、

そのための一つの手段として、「こんなアドバイスが役に立つかも」と話をしたりします。

それはあくまで、「手段の一つ」であって、目的達成に役立たなければ、別に手段にこだわる必要はないわけです。

しかし、目的と手段が混同してしまうと、

「せっかくアドバイスしたのに、余計なことってどういうこと?」

みたいな気持ちが出てきて、

そんな気持ちになるということは、「善意の押し付け」になってしまっているということでもあります。

 

伊藤さんは、その辺についても言及されています。

きっかけは、善意の押しつけでもいいのだと思います。

でも、実際に相手と関わってみれば、自分が最初に思っていたのとは違うものに突き当たるはずで、

そこに気づけるかどうかが重要だと思います。

「最初はこうすれば相手は喜ぶはずだと思っていたけど、実際やってみたら全然違いました」といったことは、

決して珍しくありません。

相手と関わり、これまで見えなかった部分に気づくことができれば

それによって自分自身も必ず変化します。

「他者の発見」「自分の変化」の裏返しです。

相手と関わる前と関わったあとで自分自身が変わっているかどうか

そこが利他を見極める上で重要なポイントになります。

 

これはつまり、

利他は必ず、「自利を伴う」ということでしょう。

 

自利利他は、好きな言葉の一つですが、

今までうまく言語化できなかったことを、的確に言語化して頂いた感覚です。

 

自利利他も、利他も、仏教由来の言葉ですが、

利他を、「私が相手を利すること」と解釈してしまうと、

因果律と合わなくなってしまいます。

 

因果律とは、因果応報、自因自果。

まいた種は、必ず生える。

自分の蒔いた種は、自分が刈り取らねばならない。

他人の蒔いた種が、自分にやってくることはないし、

自分が蒔いた種が、誰かに生えるということもない。

 

それが「縁」という形で、他者に影響を与えることはありますが、

それは、間接的要因であって、直接因ではない。

 

利他も、相手が喜ぶ「縁」になることであって、自分はあくまでサポートや、支援という立ち位置。

 


利他とは、「相手の幸せを願う」ことであって、

「相手に幸せを押し付ける」ことではありません。

 

それは、「伝える」ものというよりは、

「伝わる」という表現の方が、適切なのかもしれません。

 


引用元: