昨日(11日)の朝日歌壇から。
歌詠みを始めて四年こんなにも多くの感情捨てて来たのか
(五所川原市 戸沢大二郎)
馬場あき子氏選第4席である。
わたしは、歌を始めてやっと1年になろうかという初心者であるが、「こんなにも多くの感情捨てて来たのか」という思いには大いに共感する。
歌を詠むようになって、わたしの内面は大きく変わった。
さまざまな物事にしっかりと向き合うようになった。
自分の感情に向き合うようになった。
自分の言葉と向き合うようになった。
わたしは、毎週最低1首の投稿を自分に課している。
そのため、毎日歌のネタを探している。
ネタとは、心に響く何か、である。
道を歩いていても、新聞を読んでいても、心に響くものを探している。
ぼんやりしていては、何も心に響かない。
世の中のさまざまな物事に、注意深く目や耳を向けることになる。
心に響く何かと出会う。
そのとき心に湧き上がる感情は、喜びであったり、悲しみであったり、怒りであったり、さまざまである。
そのまま、嬉しい、悲しい、腹立たしい、と思うだけでは歌にならない。
何に対して、どのように、どうして、心が動いたのか、解像度を上げて自分の感情を観察する。
自分の感情がすこし高い精度で捕えられたら、それを言葉にしなければならない。
感情を表現するのにふさわしい言葉を探すのだが、この作業がもどかしい。
自分の言葉の貧しさにいつも絶望する。
もっと本を読まなければならないと思う。
自分の言葉と格闘し、どうにか三十一文字にまとめ上げる。
こうして自分の感情が形になり、留められる。
入選して紙面に載り、データベースや読者の心に留められればいちばんいいのだが、ほとんどの歌はそうならず、わたしのノートと心にだけ残る。
こんなめんどくさいことをして、この1年くらい自分の感情に形を与え、残してきた。
振り返ってみると、どれも取るに足りないつまらないものであるが、間違いなくわたし自身の生の記録である。
これらの感情は、写真や動画では残せないものである。
自分が何者であり、何をして、何を感じて生きてきたのかが、歌にははっきりと残されている。
歌を詠んでいなければ、その場限りで消え去っていたと思うと、今までなんともったいないことをしてきたのかと思う。
歌を詠んで、失うものは何もない。得るものばかりである。
これからも、下手な歌を詠み続けようと思う。
もっともっと、みんな歌を詠めばいいと思う。
小・中学校では、毎日1首ずつ宿題にするべきである。
漢字や計算のドリルより、ずっと子どもたちのためになる。
文部科学大臣殿、御一考下さい。統一教会お勧めの政策より、ずっと国家のためになりますよ。