インターネットの普及によって、わたしたちは多くの情報を瞬時に得られるようになった。
スマホやパソコンさえあれば、地球の裏側で起こっている出来事さえ、すぐに調べることができる。
わたしも日頃から、さんざんインターネットの世話になっている。
便利な時代である。
今の子どもたちは、小学生のときからタブレットPCを使いこなしている。
分からないことがあれば、すぐに何でもグーグル先生が教えてくれる。
わたしたちの子どもの頃と比べて、今の子どもたちの知識量ははるかに多いに違いない。
と思ったら、どうもそうではないらしい。
昨日、このブログで採り上げた、芭蕉の「行く秋や手をひろげたる栗のいが」という俳句を、ことのは学舎の小学生の国語の授業で教えた。
「栗」のところを空欄にして、何が入るかを考えさせた。
「行く秋」だから秋の終わりのころのもので、「〇〇のいが」とあるのだから、すぐに「栗」と正解が出ることを期待していた。
ところが。
6年生のクラスで、正解がなかなか出なかった。
「栗のいが」を知らなかったのである。
栗はどんなふうに木に成っているか?と質問してみたところ、あの、茶色い、頭のとんがった実がそのままぶらさがっていると思っていた。
いがに包まれた栗を見たことがなかったのである。
スーパーで売っている栗は、いがから取り出した中身だけである。
それどころか、皮を剥いた状態で売られているものも多い。
いがの付いた栗は、栗の木の下でしかお目にかかれないのである。
栗の木は、決して珍しいものではない。
わたしの家の近くでも見かけられる。
しかし、子どもたちの目には入っていないのである。
関心がないのである。
インターネットを使えばあらゆる情報が得られるように思われているが、実はそうではない。
インターネットが教えてくれるのは、検索窓に打ち込んだ言葉か、こちらの関心に合わせて押し付けてくる広告の情報だけである。
栗に関心のない人が、インターネットで「栗のいが」を知る可能性は、極めて低い。
町中をぶらついていれば自然と目や耳に飛び込んでくる情報が、インターネットからは流れてこないのである。
その結果、子どもたちと話していると、えっそんなことも知らないの? と思うことがしばしばある。
インターネットが育てるのは、知識の豊富な人間でなく、知識の偏った人間である。
子どもたちの教育に関わる身として、何とかしなければならないと思う。
当たり前過ぎて、参考書や問題集でも採り上げていない普通の言葉を、どのように身に付けさせるか。
いちばん良いのは、日常の中で大人との会話を増やすことである。
そうやってわたしたちは、知識を増やしてきたのである。
しかし、その肝心の大人たちも、インターネットネイティブ世代が増えて、決して知識が豊かでなかったりする。
どうしたものか。