今日(5日)の朝日歌壇、笑ってしまった歌があった。
吾娘は書く「売られたケンカは全部買う」道徳ノートの「短所」の欄に (北九州市 福吉真知子)
さぞ気が強く、正義感にあふれた娘さんなのだろう。
選者の佐佐木幸綱氏は、「誰もが一目会ってみたくなるユニークさ」と評している。本当にその通りだ。
声を出して笑ったあと、考えた。これは長所ではないか。
売られたケンカは全部買う、福吉さんの娘さんをうらやましく思った。
わたしは、ケンカを売られても、まず買わない。もちろん、口喧嘩である。
明らかに自分が正しく、相手が間違っている場合でも、反論して言い負かすことは、まずない。最近はやりの「論破」とは無縁である。
気が弱いわけではないし、負けて平気なわけでもない。
むしろ負けることは嫌いである。40年ほど前の中学生のときの林間学校の宿舎で同級生に将棋で負かされたことを今でも覚えており、いつかリベンジしようと考えている。自分でも呆れるほど、執念深い。
しかし、売られたケンカは買わない。
相手を信頼していないのである。
大声で怒鳴ってきたり、理不尽な批判をしてくる相手に対して、自分の正当性を筋道立てて論じて戦おうとは思わない。
そういうケンカを売ってくる相手は大体、論理や筋道など理解できない人間である。議論や論破が成立するためには、その前提として双方が論理を理解していることが必要である。論理性が欠如している相手に、論理で戦うのは時間の無駄である。もっと有意義なことに時間を使いたい。他に考えなければならないことは、いくらでもある。ロシアの戦争はどうしたら終わらせられるか、とか。
ケンカを売ってくる相手がいたら、犬に吠えられたと考えるようにしている。大声で吠えてくる犬に、吠えてはいけないことを説いて聞かせても、無駄である。相手は犬だ。聞き流しておけばよい。無抵抗・不服従を貫いたガンジーを見習おう。
このような考えにより、売られたケンカは買わない。
売られたケンカは全部買う、と書いた娘さんがうらやましい。この娘さんは、喧嘩相手を戦うべき人間として信頼しているのである。わたしのように、犬だと思っていない。
周りの人々とケンカできるだけの人間関係を築いているのである。立派なことである。決して、「短所」ではない。