孝行の僧の話 ――十訓抄―― | ことのは学舎通信 ---朝霞台の小さな国語教室から---

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 今日の古文の授業で扱った『十訓抄』は、こんな話です。

 

 白河院の時代に殺生が禁止され、魚が手に入らなくなった。ある僧の老母は魚しか食わず、衰弱して死にそうであった。僧は桂川で魚を獲り、役人に捕まった。

 事情聴取を受けた僧は、院の前で言った。罪に当たることは承知の上であり逃れるつもりはない。ただ、獲った魚は川に戻しても生きられない。この魚を母に届けて母が食べたことを聞いてから、私を処刑してください。

 院は感動し、僧にさまざまな食べ物を与え、足りなければ知らせてくれと言い、釈放した。

 

 自分の命と引き換えに母に魚を食べさせようとした、親孝行な僧の話です。

 この僧はこっそりと魚を獲って食べさせようとは考えていません。僧が川で魚を獲る場面に、「みづから桂川のわたりにのぞみて、衣に玉だすきして」という記述があります。

 「桂川」は京の西側を流れる川で、皇族や貴族の別荘などもあり、平安貴族にとって身近な川です。人目につきやすく、密漁には不向きなところです。

 「玉だすき」は襷(たすき。「玉」は美称。)で、着物の袖が濡れないように縛っておくための紐です。これはいかにも川に入ります、という恰好であり、やはり密漁にふさわしい身なりではありません。川のそばで、襷で腕まくりをして魚を手に持っていたら、自分で魚を捕まえたことはバレバレです。

 つまり、僧は人目につきやすい川で一目で魚を獲っているとわかる姿でみずから魚を獲ったのです。

 その意図は明瞭です。捕まるためです。

 こっそりと国の決まりを破って見つからずに罪を逃れたら、不正です。この僧はそのようなズルいことをするつもりは、まったくありませんでした。

 罪を犯したから罰を受ける、つまり、正しく法に従ったのです。

 法に従って処刑され、母に魚を食べさせることができなければ、この僧の死は無駄死にです。

 しかし、自分が処刑されても、老いた母に死ぬ前に魚を食べさせてあげられたら、自分の死は無駄ではないと考えたのです。

 法に従って、なおかつ、母に魚を食べさせる方法は、これしかありません。

 この僧は自分の命と引き換えに、老いた母に魚を食べさせようとしたのです。

 なんとすばらしい、親孝行な僧でしょう!

 

 というのが、作者が伝えたかったところです。

 僧の言葉を聞いた人々は涙を流し、白河院は僧を許してあげた、という感動的な結末でこの話は結ばれています。

 

 しかし、本当にこれでいいのか?

 この僧の行為は本当に親孝行か?

 母は、自分に魚を食べさせるために我が子が処刑されたと聞いて、喜ぶであろうか。

 自分が魚を食べられずに死んだとしても、我が子が元気に生きていてくれた方が、母は幸せなはずである。

 この僧の行為は、親の気持ちをまったく理解していない、ひとりよがりなニセ孝行です。

 

 『十訓抄』は、そのタイトルの通り、教訓になる説話を集めたものです。

 この話には僧に対する批判は一切なく、作者は僧の「親孝行」が教訓となると考えていたものと思われます。

 古文の説話には、人間理解が単純で浅いものが多く見られます。この話もその一つです。

 

 白河院には、「大馬鹿者! そんなことで母が喜ぶと思うのか!」と僧を一喝してほしかった。

 

 子が親より1日でも長く生きなければいけません。それがなによりの親孝行です。

 『十訓抄』を読んで、そんなことを考えました。

 

 親孝行は、むずかしい。