『徒然草』の冒頭は、次に挙げる有名な一文で始まります。
つれづれなるままに、日ぐらしすずりにむかひて、心にうつりゆくよしなしごとを、そこはかとなく書きつくれば、あやしうこそものぐるほしけれ。
(なにもすることがないままに、一日中硯に向かって、次から次へと心に浮かんでくる取るに足りないつまらないことを、なんということもなく書きつけていると、なんだか馬鹿馬鹿しい気持ちになってくるけれど……。)
この一文の最後の「ものぐるほしけれ」について、気になったことを書いてみます。
「ものぐるほしけれ」は終止形が「ものぐるほし」、ここでは上の「こそ」を受けて已然形になっています。
この「ものぐるほし」という形容詞、受験参考書や単語帳で、正しく理解されていないことが多いようです。
多くの参考書や単語帳が、この語の意味を「気違いじみている」「気が狂いそうだ」などと説明しています。
私がかつて勤務していた大手予備校の単語帳では、この『徒然草』冒頭を例文として挙げ、「不思議になんとなく気が変になりそうだ。」と訳しています。
その後に、「ここは、なんとなく狂ってしまったような、という語感です。」という解説をつけています。
(例文に挙げられているのは「あやしうこそものぐるほしけれ。」の部分と出典の『徒然草』だけです。これでは文の内容が全く分からず、例文として挙げた意味がありません)
兼好法師は「気が変になりそう」な、「なんとなく狂ってしまったような」気持ちで『徒然草』を書いたのでしょうか。
『徒然草』は兼好法師の確かな洞察力や論理的思考、風流に対する感受性などで貫かれています。
中世のインテリ遁世者が、時代や人間、そして自身の孤独を、ちょっと距離をおいたところから、それでも冷たく突き放すことなくシニカルになり過ぎずに書いた、というのがこの作品の立ち位置です。
この作品には、狂気や精神疾患のようなものを感じるところはありません。(もしあるなら教えて下さい。)
冒頭文の「ものぐるほしけれ」に対する、多くの参考書・単語帳の「気違いじみている」「気が狂いそうだ」という解釈は、この作品の姿からかけ離れています。
「ものぐるほし」は、軽く「ばかばかしい」という気持ちで使われる言葉です。「気違いじみている」「気が狂いそうだ」のような、大げさな感情表現ではありません。用例を見ればわかります。
①「白山の観音、これ消えさせたまふな」と祈るも、もの狂ほし。(『枕草子』83段)
②御前にまゐりて、ままの啓すれば、また笑ひ騒ぐ。御前にも、「などかくもの狂ほしからむ」と、笑わせたまふ。(『枕草子』298段)
③あやしきまで、今朝のほど昼間の隔てもおぼつかなくなど、思ひわづらはれたまへば、かつはいともの狂ほしく、さまで心とどむべきことのさまにもあらずと、いみじく思ひさましたまふに、(『源氏物語』夕顔)
④かのありし猫をだに得てしがな、思ふことかたらふべくはあらねど、かたはらさびしきなぐさめにもなつけむ、と思ふに、もの狂ほしく、いかでかは盗み出でむと、それさへぞ難きことなりける。(『源氏物語』若菜下)
⑤薫大将の宇治に隠し据ゑ給ふべきもなき世なり。あな物狂ほし、いかによしなかりける心なりと思ひしみはてて、(『更級日記』) |
①は、女房たちが雪山がいつまで残っているかという賭けをする話です。負けたくない清少納言は、白山(一年中雪が消えないと言われていた)の観音にお祈りをしながら、一方でそんな自分の行為を馬鹿馬鹿しく感じています。
②は、火事で家を失って助けを求めにやってきた男に清少納言がふざけた歌を贈ってからかった話です。その出来事を後で聞いた中宮定子が、「なに馬鹿なことやってるのかしら」と笑った、というのです。
③は、北山で見かけた少女のことが忘れられない光源氏が、それほど執着するほどのことでもあるまい、と冷静になって馬鹿馬鹿しく感じている場面です。
④は、女三の宮を垣間見て夢中になった柏木が、せめて女三の宮の猫だけでも手に入れたい、どうやって盗み出そうか、と馬鹿馬鹿しいことを考えている、という場面です。
⑤は、子どものころに源氏物語を読んで宮廷生活に憧れた作者が、大人になって実際に宮仕えをしてみたら、源氏物語のような出来事など現実には一つもなかった、源氏物語に熱中していた私はなんて馬鹿だったのかしら、と回想しているところです。
これらの用例から分かるように、「ものぐるほし」は、「ばかばかしい」というほどの気持ちを表す言葉です。
「気違いじみている」「気が狂いそうだ」というのは、言葉の理解の上でも、また、『徒然草』という作品の本質の理解の上でも、間違っています。
酒井順子氏は、『徒然草REMIX』の中でこの「ものぐるほしけれ」について、
「何をしているんだかなぁ、俺」といった気分ではないかと思うのです。
と書いています。
まったく同感です。
酒井順子氏は他にも日本の古典の作品に関するエッセイをたくさん書いていますが、どれも読んでいて感心したり、納得したり、気づきがあったりするものばかりです。
言葉に対する感覚や作品に対する愛が、受験産業の業界人と全然違うのでしょう。
古文を学ぶ高校生や大学受験生のみなさん、いい加減な受験参考書や単語帳に惑わされないで下さい。
酒井順子さんの本を読みましょう。
面白い上に、正しい知識や確かな読解力が身につきます。
大学入試で本当に役に立つのは、受験参考書よりもむしろこういう本です。