前回中国の史書を厳密に読むと百済の文周王は実は西暦480年に中国から任官されていて、三国史記の在位年は日本書紀の紀年を参照した創作だったことをつきとめた。
今回は久尓辛王の在位年もズレていることを論述しよう。
最初に三国史記の在位年数を提示しておく。
阿花王(392-405)
直支王(405-420)
久尓辛王(420-427)
毘有王(427-455)
まずは「宋書」のこの記述から始めていこう。
景平二年(424) 映遣長史張威、詣闕貢獻。
景平二年、百済の王、映が張威を使者として送り、貢物を献じた。
使者の名前までわかっているくらいだからその使者が百済の王の名前を間違えるはずはない。
実はこの424年は「三国史記」では久尓辛王の時代に当っている。
では三国史記の編者はこの記述をどうしたかと言うと無視したのだ。
久尓辛王の時代に映(直支王)が朝貢の使者を送るはずがないからである。
「宋書」の他の文は三国史記に引用しているのにこの記述は王の在位年数と矛盾するから採用をあきらめた。
ではなぜ矛盾するのか?
「三国史記」の在位年数がおかしいからである。
1145年に編纂された「三国史記」の時代には百済の滅亡から約500年が過ぎ、まともな年表は存在しなかった。あるのは王の名前とその事績について、いわゆる紀伝体の文だけだったと推察される。しかしそれでは史書としての体裁が整わないので720年にできている日本書紀を見て、その中にある百済の王に関する紀年を参考にゼロから作り上げたのだ。
しかしその日本書紀の紀年自体が信頼に足るものではなかったため、できた年表が中国の史書の記述と合わないものになってしまった。
それが全体的に前に移動している現在の王の在位年である。
映(直支王)の正確な即位時期は「宋書」の
義熙十二年(416),以百濟王餘映為使持節、都督百濟諸軍事、鎮東將軍、百濟王。
この記述の少し前あたりだろう。
ちなみに直支王の即位年は日本書紀と三国史記では同じなのだが、亡くなった年は6年ズレている。
このことは日本書紀の紀年を始めは参照していた三国史記の編者が途中でおかしいことに気づいて独自に創作しはじめた痕跡だと考えられる。
日本書紀ではさらにおかしいことがあり、直支王が亡くなった14年後になぜかその直支王が姫を倭国に献上するという記述もある。
中国の史書を読んで三国史記の間違いをつきとめる話が日本書紀の紀年も創作の可能性が大きいという話に発展してきてしまった。
このあたりの詳しい話は小川清彦氏の著作に譲るが、日本書紀の
紀年復元とは一筋縄では行かないことがわかっていただけたのではないだろうか。
最後に百済王の実在位年をおおまかに提示しておく
阿花王(?-415)
直支王(415-427)
久尓辛王(427-429)
毘有王(429-454)
三国史記の記述を鵜呑みに研究を進めると間違った方向に進んで行ってしまうということを頭においてもらえると幸いである。