過去の記事で三国史記、そして日本書紀の紀年は信頼性がおけない創作物であることを論述した。
今回は武寧王である。
正直私も武寧王の在位年数は問題がないだろうと思っていたのだが、どうもそうではないらしい。
詳しく見てみよう。
まずは武寧王陵から出土した墓碑の文から始まる。
なぜ始まりがここからかというと墓碑という金石文は文献よりも信頼価値が置け、今回は紀年の絶対的な軸となるからである。
「寧東大将軍百済斯麻王、年六十二歳、 癸卯年(523年)五月丙戌朔七日壬辰崩到」
寧東大将軍という称号は508年から梁が使い始めた将軍号、そして”百済斯麻王”から”斯麻”が百済の王であることがわかる。
この段階では斯麻=武寧王であるかは不明である。
次に梁書列伝四十八巻
「普通二年,王餘隆始復遣使奉表,稱「累破句驪,今始與通好」。而百濟更為強國。」
この普通二年は西暦521年のことだが、百済の王の隆が”始”めて使いを派遣してきた、とある。
ちなみにここの”復”とは百済の国としては何度目かの遣使だが、王の隆としての遣使は初という意味である。
これは他の史書の記述から判明している。
ここでも”武寧王”という称号は出てこない。
この百済王、隆は年次から言って斯麻のことで間違いないだろう。
では隆(斯麻)はなぜ521年に初めて中国の皇帝に使者を送ったのだろう。
通説では武寧王(斯麻)は501年に即位したことになっている。
そして中国の南朝では新たに梁という国が建国されている。
宋、斉、と親交が続いていた百済なら梁の建国時に祝賀として遣使してもいいはずなのにそれをしていない。
皆さんご承知のように倭の女王でさえ魏が晋に代わった266年に使者を送っているのである。
在任中の百済の武寧王が送らないのはなにか理由があったとしか考えられない。
武寧王という名が見られるのは日本書紀武烈天皇四年の、嶋王を王に立てた。これが武寧王である。が一番古い記述である。
つまり斯麻のことを武寧王と呼びはじめたのは彼が死んでから日本書紀ができるまでの間、ということになる。
亡くなった時点で使われたのなら墓碑に書かれているはずだからだ。
そして書紀によると末多王は無道だったので武寧王を代わりに立てたとある。後ろめたいことは何も無く、即位したのならすぐに中国に挨拶の使者を送ってもいいはずである。
「三国史記」によると武寧王(斯麻)は501年に死んだ東城王に代わって百済王に即位している。
だが「三国史記」の年表ではすぐには遣使せずなぜか即位二十一年に梁への遣使(521年)の記述が置かれている。
これは他の王の場合と同様、年表を持たない三国史記の編者は日本書紀の紀年を参考に百済の年表を復元し史書としての体裁を整えたが、日本書紀の紀年自体が間違いなので、中国の記録と齟齬が生じ、その記述を無理やり引用したということだろう。
ここで具体的にその過程を見てみよう。
日本書紀 雄略二十年の冬に高麗の王が軍兵を発して百済を攻撃し滅ぼしたとある。
この年を西暦475年にあてる。
そうして書紀の紀年をたどっていく。
雄略の在位は二十三年まで。
清寧の在位は五年。
顕宗の在位は三年。
仁賢の在位は十一年。
そして武烈天皇の四年夏とある記述のあとに、この歳、百済の末多王は無道であり、国人はついに王を排除して嶋王を王に立てた、とある。
この年は西暦501年にあたる。
そして三国史記の東城王の没年も501年となっている。
両者が一致するからこの情報は信頼できる、ではない。この両者は中国の史書と少し矛盾する。
ということは1145年に完成した三国史記の内容は720年に作られた日本書紀を参考に作られていると見るのが妥当だろう。
そしてその日本書紀の記述と梁書の記述を比較して正しい年次を示しているのは中国の史書と考えるのが常識的な見解だろう。
言い換えれば日本書紀の紀年を読んで東城王は501年に亡くなったらしいと決定することはなんの根拠もないことになる。
では事実はどうだったのか?
末多(東城王)が側近や民衆の意向で王の座を奪われたのは520年ごろだったのではないか?。
そもそもこのエピソードは日本書紀によるものなので、実のところは部下の恨みを買って殺されたとの三国史記の方が正確なのかもしれない。年次は信頼できなくても、伝えられている逸話は事実に近い可能性があるからだ。
となると斯麻は520~521年に東城王に代わって百済の王に即位したが、二年ですぐ死んだということである。
墓碑から読み取れる情報だと60歳になって即位したが、62歳で死んだことになる。
なぜそんなことが起こったのだろうか?
まずは斯麻は478年に宋に上表文を送った倭王武であることを念頭に置かなければならない。
ここからは推測が混じる。
14歳の時に父、蓋鹵王と兄、余紀を高句麗に殺された斯麻は17歳の時に倭王となり倭国という人的資源が豊富な地域から兵力を集め、百済の復興、そして高句麗へ対抗するための軍事力を祖国に援助していた。
まずは牟都王に、次に牟大王へ。
斯麻にとって牟都は年の離れた兄であり、牟大は自分より年上の従兄弟である。
当然親密な交流もあったであろう。
それは百済王の側近や農民にも周知の事実であった。
そんな状態で牟大(東城王)が失態をおかして殺された時、百済の王として斯麻が迎え入れられたのではなかろうか。
60歳の倭国の実力者に即位を願う状況とはそんなことぐらいしか考えつかない。
しかしここで斯麻の即位を遅らせることによって変わってくるものがある。それは隅田八幡神社人物画像鏡の読みである。
それはまた次回に考察することとしよう。