ある番組内の司会者の発言「子供のいじめの原因は親が悪い」というコメントが話題になっているようようですが、私から言わせて頂くと誰が悪いと言うことでは無く、やっている行為と人とを切り離して考える必要があります。
「いじめ」が起こる原因は一つではありません。無意識の中でも「いじめ」をしなくてはいられない精神状態に追い込まれてしまうんだとも想います。考えてもみて下さい。昔から「いじめ」とまでいかなくても、仲間はずれや心が傷つく言葉を投げられたことって、誰しも一度や二度は無いでしょうか?!現在は質がひどくなり、死にまでも至ってしまう。その背景には、時代の流れの中でSNSを始め、残酷なゲームなどの影響も大きいのではないでしょうか?!
その中での家庭環境は大きく影響するかと想います。「いじめ」をする側の家庭環境。かなり昔になるかも知れませんが、「一人親だからあの子は」「親が水商売だから」そんな声を聴いた時代もありました。現在ではどうでしょう?!死語に近いかも知れません。メディアを騒がす事件などでは両親が揃い、地位や経済的にも恵まれている家庭内での事件もよく耳にします。
学校で「いじめをなくそう!なくそう!」とスローガンのように掲げている学校もありますが、一向に「いじめ」はなくなりません。なくなるわけがないのです。本質の部分を見てないからです。なぜいじめをするのか?!言い換えるなら、乱暴な言い方ですが、なぜ「いじめ」をしないといられないのかと言った方がいいかも知れません。人は大人も子供も安全安心を求めて生きています。
いじめる側の子供たちは、見方を変えると「いじめ」をすることで自分の安全安心の場を確保しているのだと想います。勿論、「いじめ」をしている行為そのものは許されることでは無いです。
先程の家庭環境に話を戻して、イメージしてみて下さい。例え両親が揃っていて、経済的にも恵まれ誰からも羨ましがられる家庭に育った子供がいるとします。両親は子供たちに親が想ういい教育を与えようと物心ついた頃から子供とのコミニュケーションの内容は教育のことばかり。両親の想いだけで子供本人の存在を無視されていたらどうでしょう?!
成長過程で親が想っているように成績が伸びなくなったり、下に兄弟が生まれたり、上の兄弟や親戚の子供と比較されたり、個としての存在を見てもらえないとしたら、親からの愛情を成績を上げたり親の期待に沿っているときはいいですが、それが無くなった時、自分に親からの目を向けたい、愛して欲しい。それが例えいけない事でも自分を見て欲しい、先生から親が呼びだされる、怒られる、そんな構図がわかっていてもその間は自分とだけの時間。無意識の中でも親とのつながりを求めて行う行為とも私は考えます。
褒め方、叱り方がわからないと言う親がとても多いです。その話をしている親も自分がどう親から育てられていたかそこまで掘り下げるケースも多いです。
私が想うのは、いかに本気で子供と関わっているかです。個を大事にしているかです。日々相談を受けている中で、自分と子供を切り離して個としてみていない親がとても多いです。子供と同一化してしまい、「うちの子は○○だから」「きっとこうだから」と決めつけてしまいます。物を与えているからいいのではなく、与える前にその必要性、そして与えられない家庭でも、その理由と向き合う親子との時間。最近の親は、忙しく自分自身にも余裕が無く子供と向き合っていないように思います。「話しています、うちは会話している方です」それって親が話をしたい時で、子供が話をしたい時でしょうか?!ベクトルが子供でなく親自身に向いている、そんな親子関係が増えてきているように感じます。
「いじめ」を減らす方法としては、対症療法的でなく根幹の問題を見ていく必要があると私は考えています。原因は一つではないのです。