私たちが気をつけて行う必要があるのは、メンタル体の器にどんな想念を容れるかを選ぶことです。


たとえ外部から低い想念が一時的に入ってきたとしても、それがメンタル体内にとどまっている間、それにたいしてどのような態度で接するかで、その悪しき影響を受けなくても済み、メンタル体が私たちの意図とは関係なく、勝手に望ましからざる心象(イメージ)を造らせることなく、意のままに働く道具にすることができることを、神智学は教えています。

 

 心は休閑地みたいに無為に過させてはならない。そうしないと、どんな想念の種子が他所(よそ)から入りこんで根をおろして生い茂るか知れない。また心を勝手に波動させてもならない。そうしないと、その中を過()ぎる波動がどんなものであっても無差別にそれと同調してしまうからである。心は自分のものである。故に自分という魂がえらぶ想念だけが入るようにしなければならない。(神智学大要 第三巻 メンタル体 「第13章 肉体(覚醒)意識」p.120より)


 もし難儀を厭うことなく、時間をかけ、集中して物事を考える習慣を形成するならば、彼の頭脳は魂から伝わってくるものだけに聴従するように訓練され、頭脳が用いられない時は沈黙を続け、周りの想念の海からやってくる取り留めもない流れに対しては反応することもそれを受け入れることも拒否するようになり、従って、明敏なる洞察と、下の界層では思いも及ばぬ確実なる判断の根源である高級界層より発する告示とに対して無感覚ということはもはやありえなくなる。(前掲書p.121より)


 心にとどめてもよいものを最大の慎重さをもって選ばなければならない。それが善い想念であることがわかったらさらにそれに思索を重ね、それを強化してから他を裨益するものとしてそれを放射する。善からざる想念であることがわかったら、それを完全に拒否することである。(前掲書p.127より)

 

 ここで、過去の記事からの引用になります。私たちにとって、なぜ心を統御することが必要なのか、この世に生を享けて、魂の進化向上のためにいちばん為すべき大切なことは何なのか、なぜ祈りが大切なのかといったテーマは、神智学のもっとも中心的なテーマであることが、今回、これを再読するうちに改めて自覚されました。

 

通常のアストラル体とメンタル体は、「カーマ(欲望)-マナス(精神)」という言葉があるように、ほとんどの人間において一生のうちに発する想念で欲望の影響下にないものはないといわれるくらいに下位メンタル体とアストラル体の欲望とからみ合っています。

おまけにアストラル界には、欲望エレメンタルといわれる生物たちがたむろしています。そして、怒りなど激しい感情を人間が出すのを、まるで餌をありつこうとする獣のように虎視眈々とねらっています。そのお目当ての感情を出すやいなやエレメンタルが群がり寄ってきてその人のアストラル体に憑依し、いっそう激しく怒り等の否定的想念感情に揺さぶりをかけ増幅させるわけです。


 そうなると、肉体の脳とメンタル体との連絡は、それらの真ん中に位置するアストラル体がハイジャックされるために完全に断たれてしまって、まともに思考が働かなくなります。


 一方、メンタルエレメンタルという存在もいます。それにやられてしまうと、一つの思考から別の思考へと落ち着きなく飛び移り、重要な事柄を集中して明晰に思考することができなくなります。

こうした危険を避けるには、コーザル体の意志が常にメンタル体に命令を下し、メンタル体は常にアストラル体を統御するという正しい流れが完成される必要があります。

 これこそが、人間が生れ変わり死に変わり(輪廻転生)しつつ、意識を進化させてゆこうとする目的です。魂の目的といってもよいでしょう。眠っていたメンタル体高位の三亜層の質料が活性化し、コーザル体からの働きかけに応えて清純で高尚な思考ができるようになると、もはやアストラル体がメンタル体の働きを阻害することもなくなってゆきます。


 いつも心配ばかりしていたり、不安を抱きがちだったり、ちょっとしたことでふさぎこんだり、悩み苦しんだり、疑いの念がはらいのけられなくなったりという心の状態は、習慣化したメンタル体の癖のようなものです。いうまでもなく下層の質料が使われているのですが、これと反対に少しでもコーザル体とのパイプを強めようと思ったら、いくつかの訓練や心がけをすればよいのです。


 そのひとつが、毎日一定の時間をかけて集中的に物事を考える習慣を生みだすことです。これについては、別の機会に譲ります。


 もうひとつは、いつもワクワク感を大事にして行動する心がけが有効ではないかということです。


 これは、神智学の本には書いてないことなのですが、ワクワクするかどうかは自分がよく知っていて、これをするときワクワクするかどうかと自分の声を聞いて、それに素直に従うときは、コーザル体と一体化しているのではないかと私は考えています。

 別の言葉でいえば、私たちが各自で異なる固有のワクワクを信頼して行動に移すときには、高次の魂(真我)からのメッセージが受け取る用意ができているということではないかということです。


 当然、低いところからやってくる欲望や否定的想念などとは波長が合わなくなるので、それらの雑念に頭脳が煩わされることはなくなっています。



  (2010-01-11 21:01:07  「ワクワク」を神智学の観点でみると

       テーマ:神智学の森 メンタル体  より引用)


                                                つづく