人間が死ぬと、しばらくはアストラル界層といわれる世界にとどまりますが、ここではまだアストラル質料という、物欲や性欲などの欲望やそれにともなう想念を引きつけやすい粗雑な波動の質料で構成された形態が周囲に残っています。それはすでに彼が後にした地上での物質生活を営んでいたときの様子と非常に似ている写しの世界なんですね。ところが、実際には全然ちがう点もあります。たとえば、壁を自由自在につき抜けられる。にもかかわらず、まだ物質界にいると勘違いして、ドアを見つけて、そこから出たり入ったりしてしまう。また、空中を軽く移動できるのに、わざわざ地面の上を歩こうとする。

 これを読んで、この感覚なら知っていると思われる方は少なくないことでしょう。そうです。夢見の中のあの体験です。「あっ、崖から落ちる!」と思い、もうだめだと肝を冷やしたつぎの瞬間には、ふわっとすくいとられるように体が浮かんだまま空中でも海面の上でもスーッと飛んでゆけちゃいます。 食べたり、寝たり、生活のために働く必要さえないというのがアストラル界層の特徴です。それでも、まだそのことに気づかずに、アストラル質料を材料として自分の想像でつくりあげた食事の準備をして、それを食べたり、住む家をつくって住んだりということが行われることがよくあるそうです。まあ、だんだんと体験し、学習しながら、ここがどこであるかがわかってゆくようです。


 肉体的に死ぬ前にすでに、アストラル界層の実情についてよく学び熟知している人にとっての死後生活は、安らぎと、肉体生活時の重荷であった飲食という止むを得ない煩わしさや必要からの完全な解放であり、それがこの世界のいくつもの心地よき特徴のひとつである。アストラル界層においては、人間は全く自由である。何でも自分の好きな事をやり、どのような時間の過ごし方をしようと自分の勝手である。

(神智学大要 第二巻アストラル体「第13章 死後の生活-原則」 p.147)


生きづらいといわれる現代社会に生きる私たちからすれば、まるで天国みたいに思えてきます。でも、天国とはあくまでも違います。天国はデバチャンといって、メンタル界層になります。そこは、メンタル質料といって、欲望や感情などを引きつけるアストラル質料より精妙な波動から成る高い次元の世界です。

そこに移るまでに、アストラル生活中でも、下位のアストラル質料にたいする注意や関心がしだいに薄れてゆきます。そして、もう少し高位のアストラル質料と取り組みつつ、だんだんと周囲に展開されていた生前の物質界とよく似た写しの世界も薄れてゆきます。

 注目すべきことは、それにともない、生活の中心が思考とか思索とか思想のほうに傾いてゆき、より精神的な活動へとシフトしてゆくことでしょう。それでもなお、欲望や感情はまつわりついています。そして、そういう状態でいれば、それだけ苦しいわけです。肉体的な苦痛や疲労からは解放されるものの、あらゆる欲望や想念が目に見える形となり、眼前に現われるのが、アストラル界層の特徴です。


そのうえ、アストラル界層の人間には地上界の知人の肉体は普通は見えないけれども、その代わりアストラル体は見える、従って彼らの感情や情緒がよくわかる。彼は知人達の地上生活の出来事を根掘り葉掘り調べあげることは必ずしもできるわけではないが、彼らの愛や憎しみ、嫉妬や羨望などのような感情は彼らのアストラル体を通じて現われるので、すぐにそれに気付くようになる。かくして、生きている人は、死んでいった人々を失ってしまったとよく思うものであるが、「死んで行った人々」自身は片時も生きている人々を失ってしまったとは思わないのである。死後アストラル体をまとって生きているほうの人は、知覚を鈍らせる物質体がなくなっただけに、地上に在った時以上に物質界の知人たちの感情にすぐ、しかも深く影響を受けるようになる。

(神智学大要 第二巻アストラル体「第13章 死後の生活-原則」 p.143-p.144)


  肉体界物質界に生きている私たちの感情が争いや悲しみや欲望であるか、感謝や喜びであるか、その差はおそらく私たちの想像をはるかに超えて霊界の住人にとっては大きなものであろうと思われます。 もちろん、亡くなった人々が私たちの感情や想念におよぼす影響というのも相当なものがあるでしょう。互いに良い影響、進化や幸せにプラスする感情や想念を出してゆくのが、双方にとってよいことはいうまでもないことです。

 いずれにしても、アストラル界層にいる人々は、一日も早く浄まって、もっと高い界層に移行する必要があるのです。