先日のことであった。道場の時計も四時を廻った頃、
若い母親におぶさって二才になる男子が、いつもの
様にお浄めにやって来た。
「この中に何がある」先生は坊や片手を握って差し
出された。坊やは一生懸命になってその指をほどこ
うとして、遂いにキャラメルを見つけ、嬉しそうに
早速むいて口に入れてしまった。
「さあ、おいで」坊やは先生のひざの上に勢いよく
上った。「あらあら、靴をはいたまま」と云う声には
っと見なおすと、坊やは汚れた靴をはいたまま、平
気で先生にだっこされている。
「まあ」と言ったまま、先生も一同大笑い。坊やは何
笑われたも知らず、先生のひざの上で、口をもぐもぐ
させていた。


「人間も坊やのように、泥靴をはいたままでも、よごれ
ていたままでもいいから、ためらわず神さまのひざにあ
がってくればいいのですよ。大人は、こんなよごれた私
が、とか私のような罪深い者が、と云う罪悪観(ママ)が
あって、幼児のように、本心の願いのまま神さまのひざ
の上にあがって来ない。罪深い私も、よごれた私もない、
みな業の消えていく姿なのですよ。神さまはよごれとか、
罪悪とかをなんとも思っていません。神さまの目は、回
心した光り輝く本心の姿のみをごらんになるのです。神
さまはいつも、私のところへいらっしゃい、と言ってい
るのですから、よごれてもいいから、そのまま幼児のよう
に、す裸の心になって真直に神さまのふところに飛びこむ
のです。それで万事OK、いいのですよ」

後で先生はこう教えて下さった。


神様の世界、仏様の世界に、無理なく明るく大らかに、そし
て自然に人間を昇らせていく教えでなければ、人類を真実
救われの道に導くことは出来ないであろう。片言的知識にか
たよった神の子観、罪人観では人は真に救われないことをよ
く知らなければならないと思う。


(『白光』昭和32年5月号「あとがき」から全文を抜粋)