前回は放たれると内側に湾曲してゆく曲線を描いて、放った人を取り囲むタイプの想念エネルギーについてお話ししました。
その特徴は原発者にたいし、戻ってきてしまうということです。そして、想念を放った人間を取り囲み、球形をなして、その中に閉じ込めてしまいます。

そのような軌跡を描く想念は利己的な想念にかぎります。
それは生き物として、食物を補給するかのように、本人にくり返し働きかけて同じパターンの考えを起させることで生き永らえようとします。
しかし、しばらくとどまった後に、やがて消滅します。
なかでも強固なもののみが残ります。それが固定観念が造られてゆくメカニズムでした。

さて、それではいったいどうしたらこの悪循環から自由になることができるのでしょうか?


それは上の界層へと突き抜けてゆくことによって可能となります。

利己的な想念や感情というのは、上に抜けてゆくことなく戻ってきて、アストラル界や低位メンタル界のレベルで消滅します。

ところが、人間が自分のことを考えなくなり、無私、無我となってゆくほど、そのエネルギーが戻ってくるようにカーブすることはなくなり、つぎのレベルの界層をめざして上昇し始めます。

なぜなら、利他的な感情や想念のみが、高位メンタル界やコーザル界などの精妙な質料が感応して受け容れることのできる波動だからであり、そこでまた広がってゆくことのできる波動だからです。

それはちょうど外側にそり返るカーブを描いてラッパのように広がる形状になります。


数学の世界でもリーマン空間という考え方があります。

二次元平面では、曲率がプラスなら内側に巻いてゆく感じですから、必ずどこかで閉じた空間として球形をなすことになります。

もし、曲率がゼロなら、広がりはどこまで行っても交わりません。一つの平らな面の 上に間隔をあけてもう一つの面を広げていっても、二つの面はぶつかるということがなく、平行のままです。

ところが、マイナスの曲率というのがあり、曲率がプラスの曲面とは異なり、馬蹄形をなします。
 いわば外側にそり返る感じになるわけですが、これも曲率ゼロの場合と同様に、どこまで行ってもぶつかることがありません。


 利己的な想念のエネルギーをプラスの曲率とすると、

非利己的で利他的な想念のエネルギーはマイナスの曲率に喩えられます。

 非利己的で利他的な感情想念の典型が崇高な「献身」の感情想念です

 さて、無私といっても献身といっても、捧げる対象によって、自我のなさの度合いはさまざまなレベルがあります。

 恋人への献身。我が子にたいする母親の献身。
 一族郎党や共同体社会にたいする自己犠牲。
 主君にたいする忠義。会社や組織にたいする忠誠。
 国家にたいする滅私奉公。
 自己のワークにたいする没入。

 

どれをとっても、いくぶんかの自我の滅却が可能です。一方でしかし、それらはじつはエゴイスティックなものでもありうる余地を残しています。

 それにともない、多少の利己的感情想念というものが混じります。エネルギーの不純さは、完全に各界層を突き抜けてゆくことを妨げます。

 そして、その分、霊的進化は遅れます。
 そして、エゴの牢獄の中に、自分の造り出した想念の生き物の球体に幽閉されながら、苦悩します。

  だから、人間は自由を求めて必ず上へ上へと開放されてゆくことを求めざるをえなくなっています。


 それでは、その最高峰はどこにあるのかということになります。

神智学の叡智は、つぎのように教えています。抜粋してみます。


 高い次元の界層には、無限の力が径路(チャンネル)さえ開かれればいつでも降り注ごうとして待機しているのである。
 その径路を開くのが、完全に無我の献身の想念であり、そのような想念のなかでも最も崇高にして最も高尚なるものが神御自身の許にまで昇天する。その時神はそれに答え給うて神の生命を注ぎ降し給う。かくして、この径路を開いた者は強められ高く揚げられ、彼の廻りには力に満ち、恵みに満ちた気が拡がる。

(神智学大要 第二巻 アストラル体 第七章 想念形態 より)


 これこそが、「祈りは必ず答え(応え)られる」という信念の最高の根拠だといわれます。

 では、いったい「高き界層のより美しきものが低い界層に降り注ぐ径路をつくりちょうど祈りの場合のように、念ずる人にも念ぜられる人にも驚くべき結果をきたすのである」といわれるエネルギーはどこから来るのでしょうか?

これすべて高き次元の界層に人類救済のために備えられた一大貯源から流れ出るのである。
人類の域を脱し、すでに進化の遥か高き界層に到達して、さらになお至福の境界にも進もうと思えば進めるのにそれを断念して、人類の指導と救済とに尽くしておられる方々をニルマナカーヤと申し上げているが、このニルマナカーヤ方が前記の力の一大貯源と特に深いかかわりを持っておられる。


 たとえば、世界平和の祈りは「神界と五井先生の約束事により、この祈りを唱えるところに救世の大光明が輝く」とされています。救世の大光明とは、イエスキリストや仏陀をはじめとして地球を今も守っておられる聖賢の集合を意味するのです。
 約束事というのはチャンネルが開通していることを意味し、古来、称名でも念仏でも、約束にしたがって高次元から低次元へと美しい光や救済の力が注がれるわけです。

 これにはもちろんいろんな種類やレベルがあるのですが、前掲書にはこんなことも書いてあって、これはヒマラヤのハイラーキーの「大師」にかぎらず、わりと一般的にいえることでしょう。


ある大師について瞑想すると大師との間にあるつながりができ、それは霊視者には一種の光の筋として霊視される。その大師は意識の奥では常にそれを感じておられ、それに応えて、その筋を通して磁力を送られる。それは瞑想が終わったあともかなり続く。ゆえにそのような瞑想を規則正しく続けることは非常に大事なことである。



 あらゆる想念形態は色と形をもつということは前回にも触れました。
献身の想いというのはどんな色と形態をしているのでしょうか。

 献身の思いを持続していると、それは花によく似た形を取り、 献身的な熱願は青い色の円錐体を現じ、その頂上は上に向かっている。このような献身の想念形態はきわめて美しく、その輪郭はいろいろと異なるけれども、いちように上に向かって弧を描いてる花弁が空色の炎の様を呈しているのが特徴である。各宗教で礼拝の際花を献ずるのは、このような献身の心情の形態が花の形として現じているのが霊眼に映じたところより生じたものと考えられる。